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2013年5月31日金曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その3)


    531日,今日は須田先生が亡くなって2年,3回忌の日である。平成23年のこの日の朝,先生は逝かれた。先生への追悼の意味を込めて,久しぶりに思い出話を記したい。
昨年末のことである。その前から延び延びになっていたのだが,須田先生の蔵書を分けていただくために,先生とお付き合いの会った大学の同僚のI先生とともに,奥様の和歌山の実家にお邪魔することとなった。その途中,昨秋に納骨され,できたばかりの先生のお墓に始めてお参りをさせていただいた。大阪湾を臨む絶好のロケーションにある広大な霊園で,先生もこの景色は気に入っておられるだろうと思った。
   まったく偶然なのだが,この霊園には私の父方の墓地もあり,ついでといっては罰があたるのだが,お参りをしようと思った。I先生には車で待っていてもらい,すぐに済ませるつもりが,(言い訳にもならないけれど)久しぶりだったのでなかなか見つからず,小雪降る中,結構往生した。まったく親不孝ものだと思った。
   その後,国道26号線を南下し,予定通りお昼過ぎに和歌山に到着した。奥様とご親族の皆さんに温かく迎えていただき,先生の思い出話に花が咲いた。そして,いよいよ倉庫の2階にある蔵書を見せていただくこととなった。すでに,先生の後継者のS先生やT先生などが見られた後ということもあり,先生の最近の関心事の本は少なかったが,先生が若い頃から買い集められていた名著が結構残っており,古い物好きの私には宝物のようなものであった。また,私が卒論を書くときにお借りした文献もあって,懐かしさも一入であった。
   そんな中,奥様がコレコレと指差した文献は,なんと先生の一橋大学大学院時代の修士論文であった。手書きでびっしりと書かれた重厚なもので,先生の苦闘の後がよく現れていた。奥様にこれはどうかお手許で保管をとお願いした。
   ここで「苦闘」といったのは,先生の一橋時代の指導教官であった中村忠先生の言葉を思い出したからだ。「須田は修士を3年やった。書けなかったんだな」と中村先生はしみじみとおっしゃり,その後,須田先生が大変努力をされ大成されたことを「よく頑張ったよ」と結ばれた。その言葉の質感から私は,中村先生にとって須田先生が,本当にかわいい弟子なのだなと確信した。お二人は今,天国でお酒を飲みながら何を語らっているのだろうか。
   ところで,修士課程の修了に3年かかった会計研究者の中には大成された方が多いのではないかと思う。大阪市立大学での私の先生の先生であったY先生,神戸大学での私の先生の先生であったT先生はともに通常よりも1年長く修士課程に在籍した。Y先生は後に,そのことをエッセイで回想されているから間違いなかろう。実は私も修士課程を3年やった。といっても,私の場合は,大先生となるまでの苦闘といったわけでもなく,ただ博士後期課程への進学に失敗したため仕方なくといった情けない理由であったが。
それにしてもあの頃はしんどかったなと思いながら作業をしていると,なんとそこに私の修士論文が現れた。大阪市立大学大学院で書いたものの写しを須田先生にお送りしたが,それを残してくださっていたようである。こんなところでひょっこり現れたのは,どうも須田先生のいたずらのような気がしてありがたかったが,これは他人の目に触れてはいけないと思い,そっとダンボールの中に収めた。結局,私がダンボール6箱,I先生が2箱,合計すれば100冊ほどをいただくことになった。
    作業が終わり,宅急便の集荷が来るまでの間,再び先生の思い出話に花が咲いた。須田先生は自動車の免許を,京都産業大学の教員になってから取得し,実は車の運転があまりお上手でなかったとか,笑いのベースがどこか関西人と違ってずれていたとか,ご家族しか知らないお話をいろいろお聞かせいただいた。
   そうか,私は学生時代何度か先生のお車に乗せてもらったが,結構危なかったんだと今さらながらに肝を冷やし,そういえば,同乗していただいた時にはいろいろ助手席で運転のアドバイスをいただいたが,あれはなんだったのかと思い返した。また,ゼミ合宿の懇親会などでは,たしかにご自身の発したギャグに対して一人で受けに入っていたなと,にこやかに語る先生の姿を懐かしく思った。
   人に歴史ありという。先生の蔵書を見るときに,その言葉が正しいことを確信する。実証的会計学研究で学界をリードした先生ではあるが,院生時代には非常に多くの古典を読まれていたということが分かる。それは一橋大学の指導方針であったのだと思うのだが,先生ご自身にも,研究の基礎として古典を大事にしたいというお気持ちがあったのではないか。
   一橋大学のある国立駅近く,線路沿いにあるN書店という古本屋さんが先生の行きつけで,私も紹介していただきアメリカ近代会計学の立役者W. A. Patonの本などを購入したことがある。先生はアルバイトで得た資金で多くの古典を購入されていたのだろう。
    須田先生の主著は,『財務会計の機能 ‐理論と実証‐』(2000年,白桃書房)である。この本について私は,ある雑誌に,「最近の研究書の多くが,序章・結章をおくことが少ないなか,同書が,あえて序章から説き起こし,都合15章の長い道のりを経て,財務会計制度のあり方を考察した結章へと展開・結実していくさまは,(会計学に-筆者追加)『閉塞感』をおぼえた日から,実証研究を踏まえた財務会計制度研究という新たな活路を切り開かれるまでの,先生の苦闘の跡といってよい」(『会計人コース』20031月)と評したことがある。今読み返してもその思いは変わらない。
   いつの日か同書も古典と呼ばれる日が来るだろう。これからの会計学徒にも読み継がれるべき名著だと,私は確信している。

2012年7月2日月曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その2)

   須田一幸先生の一橋大学大学院時代からの畏友であり,私の尊敬する会計史学者のN先生がこのブログのことをFacebookで話題にしてくださった。感謝である。そこでというわけでもないが,須田先生について今少し書き加えたい。
   私は,大学教師になってすでに17年目に入ったが,いまだに須田先生のような授業を一度も行なったことがない。かつて『会計人コース』にも書いたことであるが,須田先生の授業は準備万端,本当に隙がなく緻密で,しかも内容が最新で面白いのだから無敵であった。恥ずかしながら私は,そういう授業をまだできないでいるということだ。
  私が大学院に進学しようと考え出した頃の話である。愚問だったかも知れないが,私は須田先生に「研究と教育の割合はどれくらいですか」と聞いた。「73だな」とのお答えに,やはり研究が主かと思ったが,「教育が7で研究が3だな」と言葉を重ねられた。
  その心は,「橋本君ね。私立大学では教育が主なんだよ。僕らのお給料もさ,教育でもらっていることを忘れちゃダメだね」とのことであった。なるほどと思いつつ,なんとなく不思議な感じを受けた。
   今考えるとその頃(1990年代前後)の先生は,ロチェスター大学での留学を終え,いよいよ実証会計学の須田として学界の表舞台に立ち始め,このすぐ後には日本会計研究学会賞も受賞された頃である。当然研究が第一という答えが返ってくるものと考えていたから意外だったのである。それは実際に教育熱心だった先生だからこそ説得力があった。
先生は,秋田湯沢の老舗の呉服屋さんのご長男だったので,余裕のある院生生活をおくられたと思われがちだが,そうでもなかったようだ。院生時代からたくさんの洋書を購入され,その購入費のために結構アルバイトもされ,そのアルバイトの一つが,簿記や会計を経営コンサルタントの方に教えることであった。
   コンサルに簿記を教えるというのも変わった仕事だが,先生はそこで出会われたHさんとも,その後長くお付き合いをされていた。Hさんは先生より2回り近く年上であったと思うが非常にお元気で,年に1度は先生の学部ゼミに顔を出し,講演をしておられた。
   Hさんのご趣味というか関心は粉飾決算で,実務の中でそれを発見し,われわれに披露するのを無常の喜びとされていた。会計は実践だよという趣旨だが,非常に面白くて,われわれはこの特別講義を楽しみにしていた。
  今思えばきっとその内容は先生の理想とするところとは違ったかもしれないが,自分の考えと違っても学生のためになればと,そういう機会を設けてくれたのだろう。そして,この講演にかかる費用はすべて先生のポケットマネーであった。
   私は母校京都産業大学に帰ってきて3年目の夏を迎えようとしている。あちらこちらでぼやくようでふがいないのだけれど,結構忙しく,どれもこれも中途半端な状態になっている。何をやっても手抜きをせずに一生懸命にやっていた先生から見れば,なんと情けのないことと思われるかもしれない。
   須田先生の師匠で一橋大学名誉教授であった故 中村忠先生は,どこかで「一流の研究者になろうと思わなかったが,教師としては合格点をもらえるだろう」いう趣旨のことをで書かれていた。そして,研究者としても教師としても超一流になられた。須田先生も同じ道を歩んだのである。
   私はもう,研究者としては,超どころか,ただの一流にもなれないだろうと観念している。せめて二流にはなりたいなとは,志の低いことである。ただ私立大学に勤めるものとして,教師としてはもう少し頑張ってみたいなと思っている。
停年まであと17年。今がちょうど大学教員としての折り返しの時期である。ゼミ生とわいわいやりながら停年を迎えることができればよいなと思っている。そして,さらに願わくは,あと1冊だけ,自分に納得いく本が書ければ最高だと思うのだが,こういうのを望蜀というのであろう。また,なんと小さいと須田先生に笑われそうであるが。
暑い夏,学会シーズンがやってくる。先日,先生の奥様が送ってくださった先生の形見のブレザーを着て,今年の夏も乗り切りたい。

思い出の先生方(中村忠先生編)

中村忠先生のことども

    私のブログを見てくださったある先生が,「中村(忠)先生みたい」とおっしゃってくださった。最高のほめ言葉であり,かつ恐れ多いという感じである。
   一橋大学名誉教授 故中村 忠先生は,私の学部時代の先生で昨年亡くなった須田一幸先生の先生なので,私にとっては先生の先生である。会計学者なら誰でも知っている制度会計の大家であった。私は先生の『現代簿記』で簿記の勉強を始め,『現代会計学』で会計学のいろはを学び,そして,先生のエッセイ集の文章をお手本にした。
   今回のタイトルの「・・・ことども」も先生のマネである。先生の恩師,番場嘉一郎先生への追悼文がこういうタイトルであった。追悼文なのに「・・・ことども」。なんとなく違和感を覚えたのだが,語感のよさを買ってマネをさせてもらっており,一昨年の簿記学会ニュースでも「オランダのことども」と題して雑文を草した。
   中村先生のエッセイを読む限り,先生と番場先生の関係は非常に複雑で微妙であったようなので,このタイトルも何か含みがありそうだとも思うのだが,どこか諦観した余韻が感じられるのは私だけであろうか。先生の真意は何だったのか,もはやそれは分からない。
   私が先生に直接お目にかかりお話をさせていただいたのは,結果的に先生の最晩年であった。もちろんお目にかかったときは非常にお元気で,まだまだやるぞという鋭気さえ感じたのだが,最後にお目にかかってから1年もしないうちに忽然と逝去された。
   先生とはたった3度の邂逅であった。それは2007年の春から始まった。この年の春までの1年間,私はオランダのライデン大学に在外研究に出ていた。その折,イギリスのカーディフ大学に,当時,Academy of Accounting Historiansの会長をしていたW教授を訪ねる機会があった。
   W教授は日本の戦後の会計制度の成り立ち,とくに企業会計原則の生成に興味を持っていた。同教授のいうには会計原則の初期の成立過程が良く分からないし,それについての文献もあまりないということであった。
   そういわれればそうであるし,これはわれわれの会計学者の怠慢かなと思った。それでは誰に話を聞くのが良いかと考え,とっさに思い浮かんだのが中村先生であった。前述のように先生は制度会計の大家で,企業会計原則の改定を審議する企業会計審議会,その全盛期の主要メンバーであったからである。
   そこで私はオランダに帰ってさっそく中村先生にお手紙をし,インタビューをお願いすることとした。帰国までもうすぐの時期であり,日本に帰ってから出せばよいものを,私はあえてオランダから出すことにした。それは中村先生がエッセイか何かの中で,もうこれからは,送られてくる論文の抜き刷りやその他の礼状などは読まないと宣言されていたからで,私にはさすがにオランダからならば読んでくれるだろうとの狙いがあった。
   首尾よく,あるいは狙い通りといえば先生に失礼であるが,帰国後ほどなくして先生からお呼び出しの手紙をいただいた。それとほぼ同時に須田先生からは,「中村先生がどうして須田を通して頼んでこないんだって訝しげだったよ。まあ,何とかとりなしておいたけどさ」と,やんわりお叱りを受けた。先生のお怒りは当然だと思ったのでお詫びをした。
   オランダから出した事情は先の通りだが,須田先生を通さなかったのにはもう一つ理由があった。それは私と須田先生との距離にあった。当時の須田先生は,最高に乗っていた時期であり,向かうところ敵なしの様子であった。へそ曲がりの私はどうもそういう感じが苦手で,ついつい距離を置いてしまい,生意気にもというか,無礼にもというか,先生を差し置いて中村先生に直接コンタクトを取ってしまったのである。今思えば本当に申し訳ないことをしたと反省をしている。
   さて,中村先生と始めてお目にかかる日,平成1952日が来た。その日の午後,先生の当時のお仕事場であった大原大学院大学にお伺いした。会ったとたん先生の不機嫌さがわかった。原因は,このインタビューの直前にお送りした手紙の次の一言である。「終わってからぜひ一席設けたいと思いますから,先生のお好みをお聞かせください」。
   先生のいうにはお前のような若造に奢ってもらうほど落ちぶれちゃいない,生意気だということであった。だから,「今日は飲みに行かねえぞ」と宣告をされ,それはそれで仕方ないと気を取り直してインタビューを始めた。
    1回目のテーマは,先生の簿記観から制度会計に関するまで多岐にわたった。あらかじめインタビュー項目をお送りしていたのだが,それに対して先生は「これに書いてきたから」とメモをくださった。それは,新聞の折り込みチラシの裏にびっしりと書き込んだものであり,中村先生らしいと,知りもしないのに感心してしまった。
 最初はどこか構えていた先生も次第にリラックスされ,時々思い出話に脱線しながらもインタビューは思った以上にスムーズに進んだ。私が先生の御本をほぼすべて読んでいると分かってくださってからはとくに話が弾んだ。
   これ以降の2回のインタビューも含めて内容はすべてテープ起こしを行なっている。先生から公表しても良いといわれていたが,内容が内容なだけにこちらの方が躊躇してしまっているうちにそのままになっている。直言でなる中村先生である,人物評や学界のあれこれについて歯に衣着せぬ言論があちらこちらにある。その一方で,やはり制度設計に関わった方にしか分からない思い入れたっぷりの話もあり(たとえば,昭和49年の企業会計原則の修正),この部分だけでもいつか研究素材として使わせていただこうと思っている。
さてそうこうする内に,午後4時を過ぎた頃から先生はそわそわしだした。そして今日はこれくらいでいいだろうとなったのは,4時半ころのことであった。先生は,「飲みに行くぞ」とおっしゃられた。そして,さっさと片づけを始められ,最後に中折れ帽をかぶって,もう今にも歩き出さんばかりであった。
私は,飲み会はなしと聞いていたので少々戸惑いながら,録音機や資料などをあわてて片付けた。先生は事務の方に連絡をいれ,すたすたと歩き出した。私はただただ後をついていくだけであった。
先生は,後から事務の若い方も呼んでいるからといって,まっすぐ神保町の交差点方面に向かって歩き出された。速い。思ったよりも速く,というよりせっかちに歩かれた。神保町交差点を渡りさらに南に数百メートル歩き,着いたのは如水会館であった。先生は「ここの店が5時から開くんだ」とだけおっしゃり,中に入られた。
Mercury(商神)という名のその店は,後から思えばお昼間からやっているようだが,先生は飲むのは5時からと決めていたようで,座るなり生中ではなく生大を2つとおつまみを注文された。先生はお疲れさんとねぎらってくださり,飲めといわれるので思い切り飲んだ。すると,先生は笑顔で飲めるじゃねえかとばかり,追加を頼んでくださり,今度は日本酒の徳利が2本出てきた。ここからはほぼコップ酒である。おかげで少し遅れて,大原の方がこられた時にはすっかり出来上がっていた。
先生のお酒は陽気で楽しい,というのはきっと多くの方が納得されるのだろう。噂には聞いていたがそのピッチの速さにはとても着いてはいけなかった。しかし,本当に幸せな気分も味わった。それは宴もたけなわの頃,ウエイトレスさんに先生はいった。「僕ね,如水会の調布支部長なんだよ。それとこれ,俺の孫弟子なんだ」。俺の孫弟子といってくださったことが,私にとっては非常にうれしかったのである。
2時間ばかり,まだ7時前という頃に宴は幕を閉じた。この短い時間に結局徳利を1回に2本ずつ,4回以上お代わりしたがそれ以上は覚えていない。先生はさっさと支払いを済ませ,颯爽と帰っていかれた。
残された私は,次の日も東京で仕事があったので,当時お気に入りであった東京ドームホテルまでの約1キロをふらふらになりながら帰った。まだ通勤者が家路を急ぐ頃にすでに酩酊していたのであるから格好の悪い話である。
わが国制度会計最後の大家,中村忠先生。その孫弟子と呼んでいただいたことに,私は誇りを持ちたいと思っている。

2012年4月23日月曜日

思い出の先生方(茂木虎雄先生編)

大学教員にしかなれなかった茂木虎雄先生

    先日,東京への出張前泊時,私はいつもよりかなり早目の新幹線に乗り込んだ。あるご婦人のお見舞いをするためである。その方は,立教大学名誉教授 故茂木虎雄先生の奥様であった。

   茂木先生のご高弟であるS大学のS先生とJR阿佐ヶ谷駅で待ち合わせ,何度か通ったその道を急いだ。奥様は昨年末に大きな手術を受けられ,今はご自宅で療養されている。お目にかかると思ったよりもお元気で,われわれは安堵した。そしていつも通り茂木先生の思い出話に花を咲かせた。

   茂木先生はいわずと知れた会計史学の大家である。『近代会計成立史論』や『イギリス東インド会社会計史論』は,今もわが国会計史学の金字塔だといえる。研ぎ澄まされた論理を,直截的に切り込まず,行間に先生の思いがにじんだような体言止めの独特の文体。それは,先生の思考回路の,あるいは思索の回廊の鳥瞰図といえるかもしれない。

 そんな先生と私の出会いは,1996年大東文化大学で開催された日本会計史学会第15回大会の会場であったと思う。先生はこのときすでに立教大学を退職し,大東文化大学に移られた後であった。

どなたかがご紹介くださったと思うのだが,何せ相手は仰ぎ見るような大先生である。年齢も孫とまでは行かないものの親子以上に違ったので,当時はまだ心臓にうぶ毛くらいしか生えていなかった私は,緊張していたのだろう,この時のことをほとんど覚えていない。

 厚かましい話だが,気がついたときには先生宅にお邪魔するようになっており,その際はこれまた厚かましくも決まって奥様ともご一緒に楽しくお食事をよばれ,それから別室で研究のお話をしていただく,という豪華なパターンになっていたのである。

 先生は,誰に対しても偉ぶるところがなかった。私のようなひよっこの研究者に対しても(もう年齢だけは親鳥になったけれども),その説に耳を傾けてくださり適切なアドバイスをしてくださった。

   正直にいえば,オランダ会計史に対する先生のお考えと私の考えは一致していない。むしろ逆なところも多いのである。それでも先生は,「いいなー橋本さん,これからだなー」と励まし,何かにつけて私の研究を引用して対等に扱ってくださったのである。これは私を大いに勇気付け,心の支えとなった。

   先生は私が拙著を出した時には書評を書いてくださるはずであった。しかし間に合わなかった。くだらん冗談と批判を覚悟でいえば,当時は天城越えならぬ茂木越えだと力んで執筆していたので,ご逝去の報に接した時には呆然とした。学恩に報いることができなかった不孝行者と今も悔いている。

   さて,奥様の思い出話に戻る。「パパがイギリスに留学した時,何ヶ月かして後から遅れていったら毎日同じものしか食べていなかったの。行きつけの店に行って手を挙げるだけで勝手に向こうが持ってくる粗末な食事。それしか食べてなかったの」。先生がご存命の頃から何度もお聞きした話である。先生は研究以外のことに無頓着で,ただただ毎日史料に向き合いコピーをとっていたそうである。

  「パパは最初に地方の短大に勤めたでしょ。どなたかが,まだ若いので生活が大変だろうって,会計の先生ならばできるだろうって,商家の帳簿をつける内職を持ってきてくれたの。でもパパはこんなのやってられない,できないって,商業高校出身なのに。結局,私がすべてやったのよ。家でも帰ったら子供の面倒も見ずに勉強だけだったわ」。そして, 奥様はこう付け加えられた。「パパは結局,大学の先生にしかなれなかったのよ」。
  こういいながら奥様はけっして怒ってはいない。どこかで誇りに思っておれるようにも感じた。そういえば,漫画『天才柳澤教授』で,孫がおばあさんに,おじいさんはどうして大学の先生をしているのかと聞く場面があり,まったく同じセリフがあったなと余計なことを思い出した。大学教員にとって最高のほめ言葉だなと感じた。
  私も最後はそういわれてみたいのだが,さてどうだろう。そんな思いとともに今,先生の論文を読み返している。

 橋本武久 

追記  茂木先生の思い出については,KG大学名誉教授のK先生が多くの随筆を書かれている。また,私の修士時代の恩師であるI先生との対談が放送大学のビデオで残っている。実はこの収録に私も裏方として立会った。先生が亡くなった年の1月のことであった。ともに参照していただきたい。


2012年3月8日木曜日

思い出の先生方(興津先生編:その3)

「まきこまれたらエエんや!」
   近畿大学経営学部(およびその前身の商経学部)は,会計関係の学会を数多く開催している。私はもうすぐ大学教員17年目を迎えるが,少なくとも4回は学会で近大にお邪魔した記憶がある。おそらく,そのほとんどは興津先生の決断で行なわれたのではないかと思う。
  学会の大会・部会を積極的にやってやろうという大学は少ない。準備が面倒であるし,また費用もかさみ,たいていの学会は物心両面ともに主催校側教員の持ち出しで成り立っているためであろう。しかし,大会・部会を開催しないわけには行かない。どうしたものかと思案に暮れたときには興津先生が,「うちでやったらええがな」と引き受けてくださった結果であろう。
   もちろん,興津先生お一人で学会をするわけにはいかず,当然同じ大学におられる先生方の協力が必要である。先生方の中には,「またですか」と心の中で思われた方もおられたかも知れないが,少なくとも私は,後継者のU先生はじめ近大の先生方からそのような不満をお聞きしたことはなく,どの大会・部会もすばらしい運営であった。これも興津先生の人徳であろう。
   一昨年の夏,京都産業大学で日本簿記学会第26回大会を開催した。この大会は,興津先生が同学会の会長になられた際,前任校のT大学で私が引き受けていたものであったが,私が移籍したために京都産業大学で開催していただくことになったものである。
  この話は,その懇親会から興津先生を宿舎にお送りする車中であったと思う。同乗者は運転する私の他,興津先生とその高弟ともいえるT先生,そして私の同僚のI先生であった。I先生には学会を開催するからと,急遽,簿記学会に入会してもらったばかりであったが,いきなり大会の事務全般を仕切ってもらうことになってしまっていたのである。
   私は助手席のI先生に,「Iさん申し訳ないね。こんなメンバーで同乗するなんて4月までは思ってなかったやろ。私が京産大に来たばかりにいろいろまきこまれて悪いね」と冗談めかしたが,興津先生は後部座席からすかさず「まきこまれたらエエっ。まきこまれたらエエんや!」と一喝した。それを受けてT先生も「そうそう,まきこまれたらエエんよ。私もそうやった」と受けたものだから,われわれはただ,はぁというしかない。
   興津先生らしい言い回しである。向かってくる困難や厄介ごとにひるまず,逆にチャンスと捉えて積極的に取り組め,そうすれば必ず道は開かれる。「まきこまれたらエエんや!」にはそんな興津先生の思いが込められていたはずである。興津先生にとって「まきこむ」は「見込む」である。そして実際,そのような積極性を持った,時には愚直な,と思わせる若手の研究者を興津先生は愛され育てられた。
    そして,本年27日,興津先生が大のお気に入りであった近大前の「ちゃんこ奄美」において,もっとも「まきこまれた」近畿大学経営学部長U先生主催の「興津先生を偲ぶ会」が開かれた。
そこには,多くの「まきこまれた」人々が集い,興津先生の思い出話に花を咲かせた。出席者の多くは,まきこまれた時には若手であったはずだが,今では結構な歳となっている。「おいおい,みんな歳とったなー。次は若いのん,よんどいてんか」。興津先生のそんな声が聞こえるようであった。

2011年12月25日日曜日

思い出の先生方(興津先生編:その2)

1223日をむかえて
     昨年の1223日が生前の興津先生にお目にかかった最後の日であった。
    この日,私は,私が部会長を務める日本簿記学会簿記理論研究部会をキャンパスプラザ京都で開催した。興津先生はそこに顧問として参加してくださったのである。
    この部会の立ち上げにも興津先生が関わっている。その基本的コンセプトは先生との車中の会話で始まった。「ふーん。面白いがな。インタビューなー。わしも昔やったで。あれはな・・・」といろいろアイデアをくださった。それで部会長は誰にやっていただくのが良いでしょうかとお尋ねしたところ,「あんたがやったらええんや。なにいうてるねん」と笑い飛ばされた。
    この学会の研究部会は理論・教育・実務と3つある。ちょうど昨年はその3つの部会が2年の研究期間を終了する時期にあたったのだが,当時の部会長さんたちは皆,50代後半以上の大先生たちであった。それに比べて私はまだ若く(学界ではまだこれで通用するはずだが),業績もないのにと躊躇しているとさっさと書類を準備するよう催促をされた。
    意を決して書類を作成しメンバー表を見せると先生は,「わしも委員で入れてんか」といわれた。私は一瞬,何をおっしゃっているのかが理解できなかった。話は前後するが先生は当時,日本簿記学会会長であり,現役の会長が部会の委員をされるなど前代未聞だったからである。
    そこで,ご要請は丁重にお断りし,その代わり顧問として入っていただき,またインタビューも受けていただくことで了解を取り付けたのである。先生はご不満だったようだが最後は引き受けてくださった。
    その日,1223日の午前,先生をいつものご自宅裏の通りまでお迎えに上った。これもいつものとおり,先生の奥様がお見送りに出てくださり,われわれは京都の会場に意気揚々と向かったのである。車中がいつもの笑いに包まれたのはいうまでもない。
    研究会は多くの先生方にお集まりいただき成功裏に終わった。その後はざっくばらんに懇談になったのだが,先生はややお疲れ気味であった。しかし,会が進行し始めるといつもの興津節が炸裂し,若手(しつこいようだがあくまでも学界基準である)の多い部会委員は,大盛り上がりとなった。
  そして最後は先生を皆でお見送り。京の都の大路,烏丸通に乗り出し「お疲れ様でした」の大きな掛け声をかける部会委員たち。車から「ほななー」とそれに応える先生。師走の都の道行く人々はこの光景を何と思ったであろうか。少なくとも大学教員の集まりとは思わなかったはずだ。
    車中の先生に「なんかどこかの親分さんのお見送りみたいでしたね」とちゃちゃを入れると,「あほいいなー」と上機嫌。いい部会やったな,よかったな。これで目処がついたなと,ねぎらってくださった。うれしかった。いつもにも増して四方山話に熱中し,間違わないはずの道さえ間違ってしまう始末であった。
    あと10分もすれば先生のご自宅という頃,先生はいつものとおり奥様にメールを出された。もう着くという合図である。先生は奥様思いであった。その儀式が終わった頃,十八番の話を聞かせていただいた。お題は先年亡くなられたTR先生との思い出である。TR先生は先生の兄弟子であり師匠でもあった。
    先生が近畿大学に転任するに際してのことであるから,もう四半世紀以上も前の話である。TR先生はこの転任話にあまり賛成ではなかったそうだ。その理由もお聞きしたがここでは憚りがあるので割愛する。ただ興津先生がすでに転任を決意しているとわかるとTR先生は,面接はいつかと聞かれ,その日は私も近大まで一緒に行こうといわれたという。
    先生は恐縮したそうだが,TR先生はかまわないといい,結局先生の面接が終わるまで近大近くの喫茶店で待っていてくれたそうである。後にわが国の簿記・会計学界に名を残すお二人である。いろいろなこともあったと仄聞しているが,二人の大先生が,保護者と受験生のごとく,長瀬の駅(近大の最寄り駅)から近大までを並んで歩く姿を想像するだけで感慨深いものがある。
   この話をするときの興津先生はとても幸せそうであった。そして,最後はいつも「寂しいな」とTR先生を偲ばれるのも常であった。
    そうこうする内にご自宅に着き,先生と奥様に年末のご挨拶をした。来年も頑張ろうとお言葉をいただき帰宅した。ここらあたりの印象がとても薄い。もっと最後にお話をしておけばよかったと悔やまれる。しかし,明くる年のお別れなどまったく想像もしていなかったのだから仕方がないと,自分を納得させようとしているが今もって納得しきれていないのである。
  1223日はこれからも当分,興津先生を思い起こしてはため息をつく,そういう日になるだろう。

橋本

2011年12月24日土曜日

思い出の先生方(興津先生編:その1)

寛容と短気
    興津先生と私の接点は,先生の略歴を見る限りほとんど見出すことができない。かろうじて日本会計史学会の会長と幹事という間柄だけが,公式の接点とし残されているだけだ。しかしながら,今年1月に亡くなられるまでの約10年間,私にとってはもっとも身近な先生のお一人であった。
  興津先生との出会いはいつだったか,本当のところは良く覚えていない。どこかの学会の懇親会で「彼氏の司会引き受けたるでぇー」と例の明るい調子で,私の発表の司会を引き受けてくださったときだったと思う。
    わが国会計学界の巨星・山下勝治先生最後の弟子(先生は山下ゼミ博士課程の最後の弟子。修士課程の最後の弟子は,松山のH先生),日本会計史学会,日本簿記学会の元会長。多くの若手を引き上げ,育てた名伯楽であった近大の大先生。そんな名声よりも何よりも,老若男女問わず多くの研究者に囲まれて,わいわい楽しそうにお酒を楽しまれるお姿が多くの方々の心の中に残っているだろう。寛容と笑顔は興津先生そのものといってよい。
    しかし私は,先生が実は非常に短気だったのではないかと考えている。先生とは先生のご自宅と拙宅が比較的近かったこともあり,学会や研究会の行き帰り私の車でよくご一緒した。そんな時,「ちょっと寄っていこか」とお茶や食事に誘ってくださった。先生なりの気遣いである。
    そんな時は自然と関係する学会や共同のお仕事の話になる。学会の中には,自分も含めてだが,不義理な人や自分勝手な行動をする人も当然いる。そういうことが話題になると先生は急に,いつもは見せない厳しい表情をされ,二人の間は非常な緊張感に包まれるが,その次の瞬間,「まっ,しゃーないわ,あはは」と一笑に付され談笑を続けられるのが常であった。
  実は私も先生の怒りをかった一人だ。私が今の大学に移籍するかどうかという時期の話である。先生には日頃から大変気にかけていただいていたので,早い時期にご相談しておかねばと考えた。当時,先生には,私の前任校に大学院の非常勤に来ていただいていた。そこでその授業が終わった後,お茶にお誘いしお話しをすることとした。先生はだまって私のお話をお聞きになっていたが,私には先生が気分を害されているのがよく分かった。先生とすれば自分が以前に差し伸べた話には乗ってこなかったのに,今さらなんだということであったろう。
  しかし先生は,ついに最後までそのことを口にはされなかった。話を聞き終わった後,「そうか,わかった。頑張り」とだけおっしゃって,その後はご自分が移籍された時代の話をしてくださったように思うのだが,終始恐縮していた私はほとんどその内容を覚えていない。
    寛容と短気。この矛盾を抱えながら,自己を抑制し他人を傷つけず,人の良いところを見ようとされた興津先生。私はまだまだ先生のようにはなれそうもない。

橋本