先日,東京への出張前泊時,私はいつもよりかなり早目の新幹線に乗り込んだ。あるご婦人のお見舞いをするためである。その方は,立教大学名誉教授 故茂木虎雄先生の奥様であった。
茂木先生のご高弟であるS大学のS先生とJR阿佐ヶ谷駅で待ち合わせ,何度か通ったその道を急いだ。奥様は昨年末に大きな手術を受けられ,今はご自宅で療養されている。お目にかかると思ったよりもお元気で,われわれは安堵した。そしていつも通り茂木先生の思い出話に花を咲かせた。
茂木先生はいわずと知れた会計史学の大家である。『近代会計成立史論』や『イギリス東インド会社会計史論』は,今もわが国会計史学の金字塔だといえる。研ぎ澄まされた論理を,直截的に切り込まず,行間に先生の思いがにじんだような体言止めの独特の文体。それは,先生の思考回路の,あるいは思索の回廊の鳥瞰図といえるかもしれない。
そんな先生と私の出会いは,1996年大東文化大学で開催された日本会計史学会第15回大会の会場であったと思う。先生はこのときすでに立教大学を退職し,大東文化大学に移られた後であった。
どなたかがご紹介くださったと思うのだが,何せ相手は仰ぎ見るような大先生である。年齢も孫とまでは行かないものの親子以上に違ったので,当時はまだ心臓にうぶ毛くらいしか生えていなかった私は,緊張していたのだろう,この時のことをほとんど覚えていない。
厚かましい話だが,気がついたときには先生宅にお邪魔するようになっており,その際はこれまた厚かましくも決まって奥様ともご一緒に楽しくお食事をよばれ,それから別室で研究のお話をしていただく,という豪華なパターンになっていたのである。
先生は,誰に対しても偉ぶるところがなかった。私のようなひよっこの研究者に対しても(もう年齢だけは親鳥になったけれども),その説に耳を傾けてくださり適切なアドバイスをしてくださった。
正直にいえば,オランダ会計史に対する先生のお考えと私の考えは一致していない。むしろ逆なところも多いのである。それでも先生は,「いいなー橋本さん,これからだなー」と励まし,何かにつけて私の研究を引用して対等に扱ってくださったのである。これは私を大いに勇気付け,心の支えとなった。
先生は私が拙著を出した時には書評を書いてくださるはずであった。しかし間に合わなかった。くだらん冗談と批判を覚悟でいえば,当時は天城越えならぬ茂木越えだと力んで執筆していたので,ご逝去の報に接した時には呆然とした。学恩に報いることができなかった不孝行者と今も悔いている。
さて,奥様の思い出話に戻る。「パパがイギリスに留学した時,何ヶ月かして後から遅れていったら毎日同じものしか食べていなかったの。行きつけの店に行って手を挙げるだけで勝手に向こうが持ってくる粗末な食事。それしか食べてなかったの」。先生がご存命の頃から何度もお聞きした話である。先生は研究以外のことに無頓着で,ただただ毎日史料に向き合いコピーをとっていたそうである。
「パパは最初に地方の短大に勤めたでしょ。どなたかが,まだ若いので生活が大変だろうって,会計の先生ならばできるだろうって,商家の帳簿をつける内職を持ってきてくれたの。でもパパはこんなのやってられない,できないって,商業高校出身なのに。結局,私がすべてやったのよ。家でも帰ったら子供の面倒も見ずに勉強だけだったわ」。そして, 奥様はこう付け加えられた。「パパは結局,大学の先生にしかなれなかったのよ」。
こういいながら奥様はけっして怒ってはいない。どこかで誇りに思っておれるようにも感じた。そういえば,漫画『天才柳澤教授』で,孫がおばあさんに,おじいさんはどうして大学の先生をしているのかと聞く場面があり,まったく同じセリフがあったなと余計なことを思い出した。大学教員にとって最高のほめ言葉だなと感じた。
こういいながら奥様はけっして怒ってはいない。どこかで誇りに思っておれるようにも感じた。そういえば,漫画『天才柳澤教授』で,孫がおばあさんに,おじいさんはどうして大学の先生をしているのかと聞く場面があり,まったく同じセリフがあったなと余計なことを思い出した。大学教員にとって最高のほめ言葉だなと感じた。
私も最後はそういわれてみたいのだが,さてどうだろう。そんな思いとともに今,先生の論文を読み返している。
追記 茂木先生の思い出については,KG大学名誉教授のK先生が多くの随筆を書かれている。また,私の修士時代の恩師であるI先生との対談が放送大学のビデオで残っている。実はこの収録に私も裏方として立会った。先生が亡くなった年の1月のことであった。ともに参照していただきたい。
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