中村忠先生のことども
私のブログを見てくださったある先生が,「中村(忠)先生みたい」とおっしゃってくださった。最高のほめ言葉であり,かつ恐れ多いという感じである。
一橋大学名誉教授
故中村
忠先生は,私の学部時代の先生で昨年亡くなった須田一幸先生の先生なので,私にとっては先生の先生である。会計学者なら誰でも知っている制度会計の大家であった。私は先生の『現代簿記』で簿記の勉強を始め,『現代会計学』で会計学のいろはを学び,そして,先生のエッセイ集の文章をお手本にした。
今回のタイトルの「・・・ことども」も先生のマネである。先生の恩師,番場嘉一郎先生への追悼文がこういうタイトルであった。追悼文なのに「・・・ことども」。なんとなく違和感を覚えたのだが,語感のよさを買ってマネをさせてもらっており,一昨年の簿記学会ニュースでも「オランダのことども」と題して雑文を草した。
中村先生のエッセイを読む限り,先生と番場先生の関係は非常に複雑で微妙であったようなので,このタイトルも何か含みがありそうだとも思うのだが,どこか諦観した余韻が感じられるのは私だけであろうか。先生の真意は何だったのか,もはやそれは分からない。
私が先生に直接お目にかかりお話をさせていただいたのは,結果的に先生の最晩年であった。もちろんお目にかかったときは非常にお元気で,まだまだやるぞという鋭気さえ感じたのだが,最後にお目にかかってから1年もしないうちに忽然と逝去された。
先生とはたった3度の邂逅であった。それは2007年の春から始まった。この年の春までの1年間,私はオランダのライデン大学に在外研究に出ていた。その折,イギリスのカーディフ大学に,当時,Academy of Accounting Historiansの会長をしていたW教授を訪ねる機会があった。
W教授は日本の戦後の会計制度の成り立ち,とくに企業会計原則の生成に興味を持っていた。同教授のいうには会計原則の初期の成立過程が良く分からないし,それについての文献もあまりないということであった。
そういわれればそうであるし,これはわれわれの会計学者の怠慢かなと思った。それでは誰に話を聞くのが良いかと考え,とっさに思い浮かんだのが中村先生であった。前述のように先生は制度会計の大家で,企業会計原則の改定を審議する企業会計審議会,その全盛期の主要メンバーであったからである。
そこで私はオランダに帰ってさっそく中村先生にお手紙をし,インタビューをお願いすることとした。帰国までもうすぐの時期であり,日本に帰ってから出せばよいものを,私はあえてオランダから出すことにした。それは中村先生がエッセイか何かの中で,もうこれからは,送られてくる論文の抜き刷りやその他の礼状などは読まないと宣言されていたからで,私にはさすがにオランダからならば読んでくれるだろうとの狙いがあった。
首尾よく,あるいは狙い通りといえば先生に失礼であるが,帰国後ほどなくして先生からお呼び出しの手紙をいただいた。それとほぼ同時に須田先生からは,「中村先生がどうして須田を通して頼んでこないんだって訝しげだったよ。まあ,何とかとりなしておいたけどさ」と,やんわりお叱りを受けた。先生のお怒りは当然だと思ったのでお詫びをした。
オランダから出した事情は先の通りだが,須田先生を通さなかったのにはもう一つ理由があった。それは私と須田先生との距離にあった。当時の須田先生は,最高に乗っていた時期であり,向かうところ敵なしの様子であった。へそ曲がりの私はどうもそういう感じが苦手で,ついつい距離を置いてしまい,生意気にもというか,無礼にもというか,先生を差し置いて中村先生に直接コンタクトを取ってしまったのである。今思えば本当に申し訳ないことをしたと反省をしている。
さて,中村先生と始めてお目にかかる日,平成19年5月2日が来た。その日の午後,先生の当時のお仕事場であった大原大学院大学にお伺いした。会ったとたん先生の不機嫌さがわかった。原因は,このインタビューの直前にお送りした手紙の次の一言である。「終わってからぜひ一席設けたいと思いますから,先生のお好みをお聞かせください」。
先生のいうにはお前のような若造に奢ってもらうほど落ちぶれちゃいない,生意気だということであった。だから,「今日は飲みに行かねえぞ」と宣告をされ,それはそれで仕方ないと気を取り直してインタビューを始めた。
第1回目のテーマは,先生の簿記観から制度会計に関するまで多岐にわたった。あらかじめインタビュー項目をお送りしていたのだが,それに対して先生は「これに書いてきたから」とメモをくださった。それは,新聞の折り込みチラシの裏にびっしりと書き込んだものであり,中村先生らしいと,知りもしないのに感心してしまった。
最初はどこか構えていた先生も次第にリラックスされ,時々思い出話に脱線しながらもインタビューは思った以上にスムーズに進んだ。私が先生の御本をほぼすべて読んでいると分かってくださってからはとくに話が弾んだ。
これ以降の2回のインタビューも含めて内容はすべてテープ起こしを行なっている。先生から公表しても良いといわれていたが,内容が内容なだけにこちらの方が躊躇してしまっているうちにそのままになっている。直言でなる中村先生である,人物評や学界のあれこれについて歯に衣着せぬ言論があちらこちらにある。その一方で,やはり制度設計に関わった方にしか分からない思い入れたっぷりの話もあり(たとえば,昭和49年の企業会計原則の修正),この部分だけでもいつか研究素材として使わせていただこうと思っている。
さてそうこうする内に,午後4時を過ぎた頃から先生はそわそわしだした。そして今日はこれくらいでいいだろうとなったのは,4時半ころのことであった。先生は,「飲みに行くぞ」とおっしゃられた。そして,さっさと片づけを始められ,最後に中折れ帽をかぶって,もう今にも歩き出さんばかりであった。
私は,飲み会はなしと聞いていたので少々戸惑いながら,録音機や資料などをあわてて片付けた。先生は事務の方に連絡をいれ,すたすたと歩き出した。私はただただ後をついていくだけであった。
先生は,後から事務の若い方も呼んでいるからといって,まっすぐ神保町の交差点方面に向かって歩き出された。速い。思ったよりも速く,というよりせっかちに歩かれた。神保町交差点を渡りさらに南に数百メートル歩き,着いたのは如水会館であった。先生は「ここの店が5時から開くんだ」とだけおっしゃり,中に入られた。
Mercury(商神)という名のその店は,後から思えばお昼間からやっているようだが,先生は飲むのは5時からと決めていたようで,座るなり生中ではなく生大を2つとおつまみを注文された。先生はお疲れさんとねぎらってくださり,飲めといわれるので思い切り飲んだ。すると,先生は笑顔で飲めるじゃねえかとばかり,追加を頼んでくださり,今度は日本酒の徳利が2本出てきた。ここからはほぼコップ酒である。おかげで少し遅れて,大原の方がこられた時にはすっかり出来上がっていた。
先生のお酒は陽気で楽しい,というのはきっと多くの方が納得されるのだろう。噂には聞いていたがそのピッチの速さにはとても着いてはいけなかった。しかし,本当に幸せな気分も味わった。それは宴もたけなわの頃,ウエイトレスさんに先生はいった。「僕ね,如水会の調布支部長なんだよ。それとこれ,俺の孫弟子なんだ」。俺の孫弟子といってくださったことが,私にとっては非常にうれしかったのである。
2時間ばかり,まだ7時前という頃に宴は幕を閉じた。この短い時間に結局徳利を1回に2本ずつ,4回以上お代わりしたがそれ以上は覚えていない。先生はさっさと支払いを済ませ,颯爽と帰っていかれた。
残された私は,次の日も東京で仕事があったので,当時お気に入りであった東京ドームホテルまでの約1キロをふらふらになりながら帰った。まだ通勤者が家路を急ぐ頃にすでに酩酊していたのであるから格好の悪い話である。
わが国制度会計最後の大家,中村忠先生。その孫弟子と呼んでいただいたことに,私は誇りを持ちたいと思っている。