2012年7月2日月曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その2)

   須田一幸先生の一橋大学大学院時代からの畏友であり,私の尊敬する会計史学者のN先生がこのブログのことをFacebookで話題にしてくださった。感謝である。そこでというわけでもないが,須田先生について今少し書き加えたい。
   私は,大学教師になってすでに17年目に入ったが,いまだに須田先生のような授業を一度も行なったことがない。かつて『会計人コース』にも書いたことであるが,須田先生の授業は準備万端,本当に隙がなく緻密で,しかも内容が最新で面白いのだから無敵であった。恥ずかしながら私は,そういう授業をまだできないでいるということだ。
  私が大学院に進学しようと考え出した頃の話である。愚問だったかも知れないが,私は須田先生に「研究と教育の割合はどれくらいですか」と聞いた。「73だな」とのお答えに,やはり研究が主かと思ったが,「教育が7で研究が3だな」と言葉を重ねられた。
  その心は,「橋本君ね。私立大学では教育が主なんだよ。僕らのお給料もさ,教育でもらっていることを忘れちゃダメだね」とのことであった。なるほどと思いつつ,なんとなく不思議な感じを受けた。
   今考えるとその頃(1990年代前後)の先生は,ロチェスター大学での留学を終え,いよいよ実証会計学の須田として学界の表舞台に立ち始め,このすぐ後には日本会計研究学会賞も受賞された頃である。当然研究が第一という答えが返ってくるものと考えていたから意外だったのである。それは実際に教育熱心だった先生だからこそ説得力があった。
先生は,秋田湯沢の老舗の呉服屋さんのご長男だったので,余裕のある院生生活をおくられたと思われがちだが,そうでもなかったようだ。院生時代からたくさんの洋書を購入され,その購入費のために結構アルバイトもされ,そのアルバイトの一つが,簿記や会計を経営コンサルタントの方に教えることであった。
   コンサルに簿記を教えるというのも変わった仕事だが,先生はそこで出会われたHさんとも,その後長くお付き合いをされていた。Hさんは先生より2回り近く年上であったと思うが非常にお元気で,年に1度は先生の学部ゼミに顔を出し,講演をしておられた。
   Hさんのご趣味というか関心は粉飾決算で,実務の中でそれを発見し,われわれに披露するのを無常の喜びとされていた。会計は実践だよという趣旨だが,非常に面白くて,われわれはこの特別講義を楽しみにしていた。
  今思えばきっとその内容は先生の理想とするところとは違ったかもしれないが,自分の考えと違っても学生のためになればと,そういう機会を設けてくれたのだろう。そして,この講演にかかる費用はすべて先生のポケットマネーであった。
   私は母校京都産業大学に帰ってきて3年目の夏を迎えようとしている。あちらこちらでぼやくようでふがいないのだけれど,結構忙しく,どれもこれも中途半端な状態になっている。何をやっても手抜きをせずに一生懸命にやっていた先生から見れば,なんと情けのないことと思われるかもしれない。
   須田先生の師匠で一橋大学名誉教授であった故 中村忠先生は,どこかで「一流の研究者になろうと思わなかったが,教師としては合格点をもらえるだろう」いう趣旨のことをで書かれていた。そして,研究者としても教師としても超一流になられた。須田先生も同じ道を歩んだのである。
   私はもう,研究者としては,超どころか,ただの一流にもなれないだろうと観念している。せめて二流にはなりたいなとは,志の低いことである。ただ私立大学に勤めるものとして,教師としてはもう少し頑張ってみたいなと思っている。
停年まであと17年。今がちょうど大学教員としての折り返しの時期である。ゼミ生とわいわいやりながら停年を迎えることができればよいなと思っている。そして,さらに願わくは,あと1冊だけ,自分に納得いく本が書ければ最高だと思うのだが,こういうのを望蜀というのであろう。また,なんと小さいと須田先生に笑われそうであるが。
暑い夏,学会シーズンがやってくる。先日,先生の奥様が送ってくださった先生の形見のブレザーを着て,今年の夏も乗り切りたい。

オランダ・ワンダーランド(ミッフィーはメイド・インチャイナ?)

    いよいよフェルメールが日本にやってきて,予想通り初日から大盛況のようですね。いろいろフェルメールがらみの本も出ているようで,『ミッフィーとフェルメールさん』なんてのもあるようですね。
    このミッフィーというウサギのキャラクターがオランダ生まれというのは,もう結構有名かもしれません。本名(?)はNijntje Pluis(ナインチェ・プラウス)。オランダ中部のユトレヒトという街が生まれ故郷です。ここに住んでいる絵本作家ディック・ブルナーが生み出した世界的なアイドルですね。
   オランダ留学時代のある日,そのミッフィの公式専門店がアムステルダムのはずれにあると聞き,ここでしか手に入らないものを買って帰って子供たちに自慢してやろうと思って行きました。 「日本で売っていないものはどれ?」「わかりません」。なんと不親切な!気を取り直して,「じゃオランダで作っているのはどれ?」「わかりません」。馬鹿にしているのか!?気を取り直して「なんで?」「だって中国製だから」。なんと。道理で日本で見たようなものばかりだと思ったはと妙に感心しました。
    たしかに,説明書きはオランダ語だけれど,品自体はトイザらス と変わりません。中国恐るべし。どこでも中国製ですね。ちなみ中国語でミッフィーは米飛と書くそうです。日本製の車も海外で作る時代で,トヨタが国内生産にこだわるのがニュースになるのですから,それが時代の流れなのかもしれませんが,どこか空虚さを感じるのは,私だけなのでしょうか。

思い出の先生方(中村忠先生編)

中村忠先生のことども

    私のブログを見てくださったある先生が,「中村(忠)先生みたい」とおっしゃってくださった。最高のほめ言葉であり,かつ恐れ多いという感じである。
   一橋大学名誉教授 故中村 忠先生は,私の学部時代の先生で昨年亡くなった須田一幸先生の先生なので,私にとっては先生の先生である。会計学者なら誰でも知っている制度会計の大家であった。私は先生の『現代簿記』で簿記の勉強を始め,『現代会計学』で会計学のいろはを学び,そして,先生のエッセイ集の文章をお手本にした。
   今回のタイトルの「・・・ことども」も先生のマネである。先生の恩師,番場嘉一郎先生への追悼文がこういうタイトルであった。追悼文なのに「・・・ことども」。なんとなく違和感を覚えたのだが,語感のよさを買ってマネをさせてもらっており,一昨年の簿記学会ニュースでも「オランダのことども」と題して雑文を草した。
   中村先生のエッセイを読む限り,先生と番場先生の関係は非常に複雑で微妙であったようなので,このタイトルも何か含みがありそうだとも思うのだが,どこか諦観した余韻が感じられるのは私だけであろうか。先生の真意は何だったのか,もはやそれは分からない。
   私が先生に直接お目にかかりお話をさせていただいたのは,結果的に先生の最晩年であった。もちろんお目にかかったときは非常にお元気で,まだまだやるぞという鋭気さえ感じたのだが,最後にお目にかかってから1年もしないうちに忽然と逝去された。
   先生とはたった3度の邂逅であった。それは2007年の春から始まった。この年の春までの1年間,私はオランダのライデン大学に在外研究に出ていた。その折,イギリスのカーディフ大学に,当時,Academy of Accounting Historiansの会長をしていたW教授を訪ねる機会があった。
   W教授は日本の戦後の会計制度の成り立ち,とくに企業会計原則の生成に興味を持っていた。同教授のいうには会計原則の初期の成立過程が良く分からないし,それについての文献もあまりないということであった。
   そういわれればそうであるし,これはわれわれの会計学者の怠慢かなと思った。それでは誰に話を聞くのが良いかと考え,とっさに思い浮かんだのが中村先生であった。前述のように先生は制度会計の大家で,企業会計原則の改定を審議する企業会計審議会,その全盛期の主要メンバーであったからである。
   そこで私はオランダに帰ってさっそく中村先生にお手紙をし,インタビューをお願いすることとした。帰国までもうすぐの時期であり,日本に帰ってから出せばよいものを,私はあえてオランダから出すことにした。それは中村先生がエッセイか何かの中で,もうこれからは,送られてくる論文の抜き刷りやその他の礼状などは読まないと宣言されていたからで,私にはさすがにオランダからならば読んでくれるだろうとの狙いがあった。
   首尾よく,あるいは狙い通りといえば先生に失礼であるが,帰国後ほどなくして先生からお呼び出しの手紙をいただいた。それとほぼ同時に須田先生からは,「中村先生がどうして須田を通して頼んでこないんだって訝しげだったよ。まあ,何とかとりなしておいたけどさ」と,やんわりお叱りを受けた。先生のお怒りは当然だと思ったのでお詫びをした。
   オランダから出した事情は先の通りだが,須田先生を通さなかったのにはもう一つ理由があった。それは私と須田先生との距離にあった。当時の須田先生は,最高に乗っていた時期であり,向かうところ敵なしの様子であった。へそ曲がりの私はどうもそういう感じが苦手で,ついつい距離を置いてしまい,生意気にもというか,無礼にもというか,先生を差し置いて中村先生に直接コンタクトを取ってしまったのである。今思えば本当に申し訳ないことをしたと反省をしている。
   さて,中村先生と始めてお目にかかる日,平成1952日が来た。その日の午後,先生の当時のお仕事場であった大原大学院大学にお伺いした。会ったとたん先生の不機嫌さがわかった。原因は,このインタビューの直前にお送りした手紙の次の一言である。「終わってからぜひ一席設けたいと思いますから,先生のお好みをお聞かせください」。
   先生のいうにはお前のような若造に奢ってもらうほど落ちぶれちゃいない,生意気だということであった。だから,「今日は飲みに行かねえぞ」と宣告をされ,それはそれで仕方ないと気を取り直してインタビューを始めた。
    1回目のテーマは,先生の簿記観から制度会計に関するまで多岐にわたった。あらかじめインタビュー項目をお送りしていたのだが,それに対して先生は「これに書いてきたから」とメモをくださった。それは,新聞の折り込みチラシの裏にびっしりと書き込んだものであり,中村先生らしいと,知りもしないのに感心してしまった。
 最初はどこか構えていた先生も次第にリラックスされ,時々思い出話に脱線しながらもインタビューは思った以上にスムーズに進んだ。私が先生の御本をほぼすべて読んでいると分かってくださってからはとくに話が弾んだ。
   これ以降の2回のインタビューも含めて内容はすべてテープ起こしを行なっている。先生から公表しても良いといわれていたが,内容が内容なだけにこちらの方が躊躇してしまっているうちにそのままになっている。直言でなる中村先生である,人物評や学界のあれこれについて歯に衣着せぬ言論があちらこちらにある。その一方で,やはり制度設計に関わった方にしか分からない思い入れたっぷりの話もあり(たとえば,昭和49年の企業会計原則の修正),この部分だけでもいつか研究素材として使わせていただこうと思っている。
さてそうこうする内に,午後4時を過ぎた頃から先生はそわそわしだした。そして今日はこれくらいでいいだろうとなったのは,4時半ころのことであった。先生は,「飲みに行くぞ」とおっしゃられた。そして,さっさと片づけを始められ,最後に中折れ帽をかぶって,もう今にも歩き出さんばかりであった。
私は,飲み会はなしと聞いていたので少々戸惑いながら,録音機や資料などをあわてて片付けた。先生は事務の方に連絡をいれ,すたすたと歩き出した。私はただただ後をついていくだけであった。
先生は,後から事務の若い方も呼んでいるからといって,まっすぐ神保町の交差点方面に向かって歩き出された。速い。思ったよりも速く,というよりせっかちに歩かれた。神保町交差点を渡りさらに南に数百メートル歩き,着いたのは如水会館であった。先生は「ここの店が5時から開くんだ」とだけおっしゃり,中に入られた。
Mercury(商神)という名のその店は,後から思えばお昼間からやっているようだが,先生は飲むのは5時からと決めていたようで,座るなり生中ではなく生大を2つとおつまみを注文された。先生はお疲れさんとねぎらってくださり,飲めといわれるので思い切り飲んだ。すると,先生は笑顔で飲めるじゃねえかとばかり,追加を頼んでくださり,今度は日本酒の徳利が2本出てきた。ここからはほぼコップ酒である。おかげで少し遅れて,大原の方がこられた時にはすっかり出来上がっていた。
先生のお酒は陽気で楽しい,というのはきっと多くの方が納得されるのだろう。噂には聞いていたがそのピッチの速さにはとても着いてはいけなかった。しかし,本当に幸せな気分も味わった。それは宴もたけなわの頃,ウエイトレスさんに先生はいった。「僕ね,如水会の調布支部長なんだよ。それとこれ,俺の孫弟子なんだ」。俺の孫弟子といってくださったことが,私にとっては非常にうれしかったのである。
2時間ばかり,まだ7時前という頃に宴は幕を閉じた。この短い時間に結局徳利を1回に2本ずつ,4回以上お代わりしたがそれ以上は覚えていない。先生はさっさと支払いを済ませ,颯爽と帰っていかれた。
残された私は,次の日も東京で仕事があったので,当時お気に入りであった東京ドームホテルまでの約1キロをふらふらになりながら帰った。まだ通勤者が家路を急ぐ頃にすでに酩酊していたのであるから格好の悪い話である。
わが国制度会計最後の大家,中村忠先生。その孫弟子と呼んでいただいたことに,私は誇りを持ちたいと思っている。

2012年6月12日火曜日

保守化か?それとも経費節減?

   オランダに行く目的の第一は,公文書館での資料集めです。毎回訪れるオランダ国立公文書館(Nationaal Archief)は,デン・ハーグ中央駅のすぐそばにあります。今この駅は大改装中で大変騒々しいですが,公文書館の中は以前と変わらず平穏で静謐です。
   最近,といっても,聞けば1年以上前からだそうですが,ここのホームページが大きく変わりました。内容的にどう詳しく変わったかはわかりませんが,少なくとも見た目は大きく変わり,なんといっても英語の情報量が少なくなったように思います。
   これまではオランダ語版の情報量と英語版の情報量にそんなに大きな差は感じませんでした。もちろん実際は当然オランダ語版の方が情報量は圧倒的に多かったはずですが,少なくとも必要な情報にたどり着くまでは,英語版で十分だったように思います。
   オランダの会計を勉強しながら,こんなことで不便になったと感じるのも恥ずかしいですが,やはり英語の方がずっと楽だったので少々面食らいました。また,以前なら,オランダ国内すべての公文書館で通用する共通カードをホルダーに差し込めば,すぐに必要な情報が入力できたのですが,今回は手入力でした。
   そんなことも知らなかったので,カードの更新を申し出たらもう使えない,記念にとっておいてくれとといわれ,すごすごと定期入にしまいましたが,数年前アムステルダムの地方公文書館までいって作ったカードで愛着がありますので,お言葉に甘えて大事に持って帰りました。
   しかしどうしてこんなに変わったのか。英語版が貧弱になったのは,保守化なのではないかと疑ってしまいました。つまり,オランダ語のできないやつはオランダに来るな,住むな,仕事をするなといった風潮が出てきたのかと心配になったのです。
   そこでライデン大学の院生の方に聞いてみると,そういうわけではなく,財政上の問題ではないかとのこと。つまり,2倍手間かけて英語版を作る余裕が今ないということらしいです。オランダはヨーロッパのなかでは財政状態が良いほうだと聞いていたのですが,結構,締めているようですね。
   そこでネットで探してみると,昨年末頃,この公文書館が,隣にある国立図書館(Konikelijk Bibliotheek)と近く統合されるというニュースが流れていたようです。詳しい事情は分かりませんがどうやら経費節減のための合理化という側面があるようです。
   今,日本では,国も地方も財政破綻が懸念されていますが,まっさきにこういう公共の施設,しかも文化芸術にかかわるところから予算削減の対象になるというのは,古今東西変わらないようですね。少し寂しい気もしますね。

橋本



2012年5月28日月曜日

金曜日の昼食会

   金曜日の昼食は学内のラウンジ「ふるさと」でゼミ生と食事をすることにしています。毎回3名ずつ,御代は私のおごりです。われながら豪勢ですね。
   しかしそんなに甘い話は転がっていません。私は大阪の商家に生まれたので「タダほど高いもんはないで」と聞かされて育ちました。別にそれをゼミ生にも知ってもらうためというわけではないのですが,彼らは御代として成績表を持参せねばなりません。
   そして,おいしそうな松花堂弁当を前にして私は,「ダルビッシュ?イチロー?」という呪文を唱えます。ゼミ生たちが「ダル」,「ダル」,「ダル」などと答えたときには最悪です。昼食会は重い空気に包まれます。
   そう,ダルビッシュというのは,GPAがダルビッシュの防御率並み,つまり,1点を切っているという意味です(最近では,もう少し高い「メジャーのダルビッシュ」もできました)。そして,イチローというのは,同じくイチローの3割台後半の打率になぞらえて,GPAが3点台後半であることを示しています。この他にも,「8番打者です」という人もいて,野球好きの方にはだいたいあれくらいかと想像がつくと思います。
   成績だけがすべてではないと分かっているのですが,やはり大学での修学状況を示す一つの指標であること確かです。成績が思わしくない方には奮起を促す意味もあって,こういうことをやっています。
   真剣にやれば誰でもそこそこの成績は取れるだろうと信じていますが,その根拠は,私自身の経験です。私は大学に二度入学していますが,一度目のときは2年生が終わって28単位しかありませんでした。内容もこの例えでいえば,ばっちしダルビッシュ。しかし,再入学してからはほぼイチローだったと思います。やる気次第ですね,成績は。
   とにかく, 今の3年生は成績優秀な方が多く,イチローが数名います。中には昨年の秋学期に4割バッター目前だったという方も2名いて,こっちが感心させられました。この調子で最後まで頑張ってほしいですね。
   少し前ですが,それでも私の方が成績が良かったはずだと妙に気になったので,教学センターに成績証明書をもらいに行きました。 教職員なのでもしかしたらタダかもと期待していましたが,きっちり200円の証紙を購入させられ,発行していただきました。
   その結果,自分が思っていたほどには秀がなくがっかりしました。GPAは当時なかったのですが,これではせいぜい3点台前半でイチローにはなれず,本気で落ち込みました。そこでよくよく考えてみると,当時は秀は95点以上で,今は90点以上だということに気づきました。それなら私もイチローだと納得。気分が晴れました。
  バカな話と思われるかもしれませんが,努力したことが報われるというのはうれしいし,尊いものだと思います。だから頑張っている人には,それなりの評価をしたいです。それゆえ,新しい学期の講義が始まってすぐに,「どれくらいで合格できますか」という質問を毎度何度か受けますが,努力もせずにそういう質問をするのは愚の骨頂だと思っています。
   そして,できる,できないかではなく,とにかくやってみる,頑張ってみるという学生さんに,もっと簿記・会計の勉強をしてもらいたいというのがうちのゼミの考え方です。最後は,少々,説教と宣伝になりました。すみません。

 

会計のことも少し:その2

    このブログはもともとゼミ募集のために始めたもので,ゼミのホームページ担当のY君からの指示は会計のことを書けということでした。 しかし,前にも書きましたように,どうも自分の専門のことは慎重になりすぎて書きにくく,今回やっと2回目となります。
   さて本題。前から知人に教えられてはいたのですが,Web上で「簿記簿記占い」というものがあります。googleで「簿記簿記」もしくは「簿記占い」でもすぐ出てくるようです。昨日ふと 思い出したので試してみました。
   まず,名前と生年月日(これを入力するのは危険かもしれないのであまりお勧めできませんが,そこは自己責任でお願いします),それと,血液型を入力します。そしてクリック。
   その結果,私は,「修繕費」さんだと判明しました。説明を読むと私は,「せっかくの人生、楽しく生きなければ損だとばかりに積極的に動きまわるタイプ」で,「開運ヘアスタイルは,ベッカムヘアー」なんだとか。ベッカムねー。いつの時代だろう。
  まあ,あたっているかどうかという以前に,どこが「修繕費」なんだろうと考えさせられてしまいましたが,税理士試験,公認会計士試験に挑む皆さんのご参考になれば(ならないだろう),幸いです。
  以上,会計のお話でした。これでいいのか?これでいいのだ。
 

2012年5月19日土曜日

新歓(?)コンパをしました。

   5月10日(木),河原町でゼミのコンパを行いました。今回は,2年生から4年生まで合同で,都合の悪かった方を除いて40数名の大所帯でした。結構盛り上がり,写真も撮ったのですが,ブログではお見せしない方が良いものが多く,掲載できません。残念です。
   最後に2年生のゼミ主幹から「このような新歓コンパを開いてくださってありがとうございます」という挨拶があり,ああ礼儀正しい良い学生だと思っていたら,すっかり,勝手に,始末悪く出来上がっていた上級生の方からは,「そうか,これは新歓だったのか」という声も聞こえ,君は何だと思っていたのかと突っ込みたくなりましたが,あまりにご機嫌だったのでやめておきました。
  それにしてもです。この店のお酒の薄さはどうしたものでしょうか。梅酒のソーダ割りは,ソーダのソーダ割りにしか思えず,ならばと梅酒のロックを注文すれば,梅酒の5倍割の水割りが出てくる始末です。照明にグラスをすかしてみても,梅酒の色か,電球色の照明の色か,区別がつかないのにはまいりましたね。3,000円2時間食べ放題飲み放題なので仕方なしとあきらめました。
   そういえば前回の店はもっとひどかった。2時間食べ放題飲み放題なのに注文しても出てこない。私がゲットできたのは,梅酒2杯,ピザ一切,鳥カラ2個だけ。このときは奮発して1万円も出していたので,単価はなんと2,000円。そしてめちゃめちゃイライラしているうちに,「ラストオーダーです」と来るので,さらにむかつきましたが,「デザートにぜんざいはいかがですか」と,なんか気を良くするような提案があり,即,皆で注文しました。しかし,次に聞こえてきたお言葉は「2時間です。終了です」ってか。完全になめとるなという店でした。ちなみにお代は,2,800円でした。
   なお,うちのコンパの幹事は3年生のY君といい,下見までしてくれる熱心な幹事ですが,選んだ店は2回とも路地の雑居ビルの5階とか6階。しかも完全にお客をなめている店の連続です。まあそれはそれで面白いので,次回以降も期待しております。

2012年5月7日月曜日

連休が終わりました。

   連休が終わりました。この連休は仕事に集中と決意していましたが,やはりそれだけというわけにもいかず,家族サービス少々(無料の大阪府立の公園でしたが,駐車場が一杯だったので,近くの民間の駐車場に入れたら2,000円かかりました。),研究少々(論文の締切まであと二日です。明日は徹夜か?),そして,大学の仕事(すでに締切が過ぎているものもあり,ご迷惑をおかけしております。)も少々と,どれも中途半端に終わってしまい,自己嫌悪に陥っております。いつものことだから仕方ないですが。
   連休が明けると,新入生の授業への出席率が落ちるような傾向にありますが,今年はどうでしょうか。今日からまた気持ちを新たに頑張りましょう。
   ゼミ生の皆さんは,今週のゼミ発表の準備をよろしくお願いします。また,木曜日には2年から4年まで全員集合の顔合わせコンパがあります。楽しみにしております。ではそろそろ出勤の準備に入ります。
橋本

2012年5月2日水曜日

東京駅とアムステルダム駅

   少し前のニュースになりますが,東京駅丸の内駅舎の復元工事が10月に完成というニュースがありました。次のようなものです。
http://news.mynavi.jp/news/2012/04/11/124/
   この駅舎のモデルは古くからアムステルダム中央駅だといわれてきましたが,最近では,Wikiなどでもこれを否定する見解が示されています。
   私も,復元前の東京駅を見たときには,中央ドーム以外は2階建てで平べったくて,大きな壁のような重圧感のあるアムステルダム中央駅とは違うという印象でした。
    しかし,今回のニュースで,実は東京駅も元は3階建てであったものが,第二次世界大戦の空襲で破壊され,それを戦後に一回り小さくして復元したものだと知りました。
   今秋3階建てで復活しようとしているわけですが,こうしてみると私は,やはり似ているなと感じます。設計者の系統や様式が違うなど専門的なことはまったく分かりませんが,皆さんはいかがでしょうか。


(2003年8月10日アムステルダムにて)
橋本



2012年5月1日火曜日

連休は関係ない。

   今日は溜まった仕事をやっております。大学で今関わっているお仕事,締め切り間近の論文,そのほかもろもろ,こちらが詰まればあちらに逃げ,あちらで詰まればこちらへと逃げ回って,最後はここにきました。昼から頑張ります。
   なお,先ほど逃避の一環で私のFacebookとこのブログを連動させる作業をしました。うまく行っているのかどうか分かりません。苦手な科目の期末試験を受けた後のような心境です。
   では今から仕事に戻ります。休憩終了。もしうまく連動しておりましたら,過去の分もリンクからお立ち寄りください。
橋本

2012年4月30日月曜日

フェルメールがやって来る!

    毎度のことながら,フェルメールの展覧会があると大盛況になります。しかも今年は,マウリッツハイス美術館展ということで,「真珠の耳飾りの少女」も来日するそうですから,これまでにも増して多くの人出となりそうですね。
   前にも書きましたが,私はオランダのハーグに仕事でよく行きます。その際は仕事帰りに一度は必ずマウリツハイス美術館をのぞくようにしています。下の写真は,右側がマウリッツハイス美術館。ちょうど,例の少女がこちらを見ています。そして左奥が前にも紹介したオランダの国会などの入ったビネンホフという建物です。こちらは裏側です。

   残念ながらというか,当たり前というか,美術館の中は撮影禁止です。そこで今回はビネンホフ(het Binnenhof)の中をご紹介しましょう。この左側の門を入ると大きな中庭になります。
   右側の建物は騎士の館と呼ばれ,国家の開会式は国王(現在はベアトリクス女王)臨席の下,ここで行われます。
   ビネンホフで中庭という意味がありますが,うしろのホフだけでも中庭とか宮廷,さらには,豪邸といった意味もあるようです。チューリップで有名なキューウケンホフ(Keukenhof)は,キューケンが英語のキッチンにあたるので,台所の庭(?)といったような意味なのですかね。
  ホフは結局,中庭のあるような大きな家をさすようで,街中でも普通に目にすることができます。次の写真は,私が留学中に住んでいたライデンにあるホフの一つです。ここに住む友人のAさんの案内で中を見せていただきました。
   中庭に面して扉があり,それぞれが一つの家になっています。ここは今,歴史的建造物を守ることを使命とした財団が所有していて,厳しい面接を行った上で,ライデン大学などに通う単身の女性だけに貸しているそうです。静かな環境で勉強も進みそうですね。
    ぜひ皆さんもオランダに来られたら,こういうところも見ていただきたいですね。

橋本武久



スキー部の合宿に行ってきました。

   顧問(部長)をさせてもらっているスキー部の合宿に行ってきました。場所は滋賀県のマキノです。マキノにはまだ雪があるのかと思われるかもしれませんが,ありません。遠くの山の頂上付近にそれらしいものは見えますが,宿舎の辺りはもう新緑の季節です。
   今回の合宿は,球技を中心とした体力づくりのトレーニングや新入生の入部式他でした。そして目玉は教学セミナーです。部の名誉顧問で本学名誉教授の後藤文彦先生ご指導の下,部員たちは真剣に自己分析を行いました。
   
    文武両道。勉強も頑張る,京都産業大学体育会スキー部です。

橋本武久

2012年4月23日月曜日

第3回 抄読会を開きました。

   11日のことですが,3回目の抄読会を行いました。ただし,これは3月分です。だから今月はもう1回あります。
  今回は,安藤英義(2011)「会計基準等に対する簿記の独立性」『會計』,第180巻第2号,1‐15頁をとりあげました。
  参加者からの発言が少ないように思いますので,研究担当幹事(抄読会幹事)を通して,もっと積極的に関わるよう指示を出しているところです。次回からの奮起に期待したいですね。

思い出の先生方(茂木虎雄先生編)

大学教員にしかなれなかった茂木虎雄先生

    先日,東京への出張前泊時,私はいつもよりかなり早目の新幹線に乗り込んだ。あるご婦人のお見舞いをするためである。その方は,立教大学名誉教授 故茂木虎雄先生の奥様であった。

   茂木先生のご高弟であるS大学のS先生とJR阿佐ヶ谷駅で待ち合わせ,何度か通ったその道を急いだ。奥様は昨年末に大きな手術を受けられ,今はご自宅で療養されている。お目にかかると思ったよりもお元気で,われわれは安堵した。そしていつも通り茂木先生の思い出話に花を咲かせた。

   茂木先生はいわずと知れた会計史学の大家である。『近代会計成立史論』や『イギリス東インド会社会計史論』は,今もわが国会計史学の金字塔だといえる。研ぎ澄まされた論理を,直截的に切り込まず,行間に先生の思いがにじんだような体言止めの独特の文体。それは,先生の思考回路の,あるいは思索の回廊の鳥瞰図といえるかもしれない。

 そんな先生と私の出会いは,1996年大東文化大学で開催された日本会計史学会第15回大会の会場であったと思う。先生はこのときすでに立教大学を退職し,大東文化大学に移られた後であった。

どなたかがご紹介くださったと思うのだが,何せ相手は仰ぎ見るような大先生である。年齢も孫とまでは行かないものの親子以上に違ったので,当時はまだ心臓にうぶ毛くらいしか生えていなかった私は,緊張していたのだろう,この時のことをほとんど覚えていない。

 厚かましい話だが,気がついたときには先生宅にお邪魔するようになっており,その際はこれまた厚かましくも決まって奥様ともご一緒に楽しくお食事をよばれ,それから別室で研究のお話をしていただく,という豪華なパターンになっていたのである。

 先生は,誰に対しても偉ぶるところがなかった。私のようなひよっこの研究者に対しても(もう年齢だけは親鳥になったけれども),その説に耳を傾けてくださり適切なアドバイスをしてくださった。

   正直にいえば,オランダ会計史に対する先生のお考えと私の考えは一致していない。むしろ逆なところも多いのである。それでも先生は,「いいなー橋本さん,これからだなー」と励まし,何かにつけて私の研究を引用して対等に扱ってくださったのである。これは私を大いに勇気付け,心の支えとなった。

   先生は私が拙著を出した時には書評を書いてくださるはずであった。しかし間に合わなかった。くだらん冗談と批判を覚悟でいえば,当時は天城越えならぬ茂木越えだと力んで執筆していたので,ご逝去の報に接した時には呆然とした。学恩に報いることができなかった不孝行者と今も悔いている。

   さて,奥様の思い出話に戻る。「パパがイギリスに留学した時,何ヶ月かして後から遅れていったら毎日同じものしか食べていなかったの。行きつけの店に行って手を挙げるだけで勝手に向こうが持ってくる粗末な食事。それしか食べてなかったの」。先生がご存命の頃から何度もお聞きした話である。先生は研究以外のことに無頓着で,ただただ毎日史料に向き合いコピーをとっていたそうである。

  「パパは最初に地方の短大に勤めたでしょ。どなたかが,まだ若いので生活が大変だろうって,会計の先生ならばできるだろうって,商家の帳簿をつける内職を持ってきてくれたの。でもパパはこんなのやってられない,できないって,商業高校出身なのに。結局,私がすべてやったのよ。家でも帰ったら子供の面倒も見ずに勉強だけだったわ」。そして, 奥様はこう付け加えられた。「パパは結局,大学の先生にしかなれなかったのよ」。
  こういいながら奥様はけっして怒ってはいない。どこかで誇りに思っておれるようにも感じた。そういえば,漫画『天才柳澤教授』で,孫がおばあさんに,おじいさんはどうして大学の先生をしているのかと聞く場面があり,まったく同じセリフがあったなと余計なことを思い出した。大学教員にとって最高のほめ言葉だなと感じた。
  私も最後はそういわれてみたいのだが,さてどうだろう。そんな思いとともに今,先生の論文を読み返している。

 橋本武久 

追記  茂木先生の思い出については,KG大学名誉教授のK先生が多くの随筆を書かれている。また,私の修士時代の恩師であるI先生との対談が放送大学のビデオで残っている。実はこの収録に私も裏方として立会った。先生が亡くなった年の1月のことであった。ともに参照していただきたい。


2012年4月14日土曜日

2012年度のゼミが始まりました。

    新しいゼミ生を迎えて,2012年度のゼミが始まりました。早いもので私がこの大学に移籍してからもう3年目です。ゼミ生がやっとフルメンバー揃いました。今年の体制は,大学院生がM2が2名,M1が1名,4年生が12名,3年生が25名,2年生が19名の計59名となりました。
   5月には全員で顔合わせの集まりをしたいと思います。8月には院生の修士論文と4年生の卒業論文の中間発表会を合宿形式で行う予定です。できれば11月の神山祭にも出てほしいですね。12月はゼミ対抗研究発表会と忘年会,そして3月には明治大学と合同の春合宿です。
    また,途中の8月には税理士試験もあり,今年は5名ほどチャレンジするようです。新4年生は今就職活動の真っ最中ですが,すでに2名ほど内定が出ました。残りのメンバーにも頑張ってほしいですね。ゼミ生のますますの活躍を祈ります。

橋本
  

春爛漫

    久しぶりの更新です。今週は,遅れていた桜が学内で満開となりました。それにしても今年の冬は寒かったですね。2月頃はこんな感じでした。
 
   そして今週はこう。
    学内でもっとも桜がきれいだと思うのは,図書館前です。
     ここではいろいろな種類の桜が咲き誇っています。
     来年の春にはぜひ見に来ていただきたいと思います。

橋本武久



2012年3月24日土曜日

明治大学三和ゼミと合同ゼミ合宿を行ないました。

    3月22日・23日の2日間,京都産業大学松の浦セミナーハウスを会場に,明治大学商学部三和ゼミと合同ゼミ合宿を行ないました。
    三和ゼミの専門は機関投資家論で,私たちの財務会計とは異なりますが,会計情報を利用する側の投資家を研究するという点で,共通の議論ができるかもしれない,何か新しい発見があるのではないかという期待を持って開催しました。
    もっと身近な狙いは,ゼミ生たちの良くいえば素直さ,悪くいえば消極的な面に,担当教員がともに危機感を持っており,他大学の学生と交流することで,少しでもそれを打破できればいう点にあります。
    担当幹事同士が事前に良く打合せをしコラボがうまくでき,私たちの期待以上の成果が出たように思います(少しほめ過ぎかも知れませんが)。とにかく,研究会では皆よく発言をし,終了後の懇親会や京都観光でも楽しく過ごすことができましたので,やってよかったと思っております。
   この企画は来年以降も続ける予定です。次回は明治大学の施設で東京近辺に遠征します。今から期待しています。

熱心に発表を聞く両ゼミ生

2012年3月8日木曜日

思い出の先生方(興津先生編:その3)

「まきこまれたらエエんや!」
   近畿大学経営学部(およびその前身の商経学部)は,会計関係の学会を数多く開催している。私はもうすぐ大学教員17年目を迎えるが,少なくとも4回は学会で近大にお邪魔した記憶がある。おそらく,そのほとんどは興津先生の決断で行なわれたのではないかと思う。
  学会の大会・部会を積極的にやってやろうという大学は少ない。準備が面倒であるし,また費用もかさみ,たいていの学会は物心両面ともに主催校側教員の持ち出しで成り立っているためであろう。しかし,大会・部会を開催しないわけには行かない。どうしたものかと思案に暮れたときには興津先生が,「うちでやったらええがな」と引き受けてくださった結果であろう。
   もちろん,興津先生お一人で学会をするわけにはいかず,当然同じ大学におられる先生方の協力が必要である。先生方の中には,「またですか」と心の中で思われた方もおられたかも知れないが,少なくとも私は,後継者のU先生はじめ近大の先生方からそのような不満をお聞きしたことはなく,どの大会・部会もすばらしい運営であった。これも興津先生の人徳であろう。
   一昨年の夏,京都産業大学で日本簿記学会第26回大会を開催した。この大会は,興津先生が同学会の会長になられた際,前任校のT大学で私が引き受けていたものであったが,私が移籍したために京都産業大学で開催していただくことになったものである。
  この話は,その懇親会から興津先生を宿舎にお送りする車中であったと思う。同乗者は運転する私の他,興津先生とその高弟ともいえるT先生,そして私の同僚のI先生であった。I先生には学会を開催するからと,急遽,簿記学会に入会してもらったばかりであったが,いきなり大会の事務全般を仕切ってもらうことになってしまっていたのである。
   私は助手席のI先生に,「Iさん申し訳ないね。こんなメンバーで同乗するなんて4月までは思ってなかったやろ。私が京産大に来たばかりにいろいろまきこまれて悪いね」と冗談めかしたが,興津先生は後部座席からすかさず「まきこまれたらエエっ。まきこまれたらエエんや!」と一喝した。それを受けてT先生も「そうそう,まきこまれたらエエんよ。私もそうやった」と受けたものだから,われわれはただ,はぁというしかない。
   興津先生らしい言い回しである。向かってくる困難や厄介ごとにひるまず,逆にチャンスと捉えて積極的に取り組め,そうすれば必ず道は開かれる。「まきこまれたらエエんや!」にはそんな興津先生の思いが込められていたはずである。興津先生にとって「まきこむ」は「見込む」である。そして実際,そのような積極性を持った,時には愚直な,と思わせる若手の研究者を興津先生は愛され育てられた。
    そして,本年27日,興津先生が大のお気に入りであった近大前の「ちゃんこ奄美」において,もっとも「まきこまれた」近畿大学経営学部長U先生主催の「興津先生を偲ぶ会」が開かれた。
そこには,多くの「まきこまれた」人々が集い,興津先生の思い出話に花を咲かせた。出席者の多くは,まきこまれた時には若手であったはずだが,今では結構な歳となっている。「おいおい,みんな歳とったなー。次は若いのん,よんどいてんか」。興津先生のそんな声が聞こえるようであった。

スキー部の応援に行ってきました。

    3月5日,私が部長(顧問)をさせてもらっているスキー部の応援のために新潟県妙高高原に行ってきました。京都産業大学のスキー部は,関西屈指の強豪です。選手たちは本当に一生懸命に頑張っていました。感動ものでした。次の写真はそのベストショット。

   また,OBのコーチたちが多忙な中を駆けつけ,後輩たちのスキー板のメンテナンスなどに献身的なサポートしてくださる姿を拝見し,本当にありがたいなと思いました。京都産業大学スキー部にさらなるご支援をお願いいたします。
橋本武久

抄読会(第2回)開催

    2月27日,第2回抄読会を開催しました。今回取上げた論文は,石川純治(2012)「『金融・開示・取引法』優位の現代会計」『企業会計』2月号でした。今日の会計が抱える問題や簿記と会計の考える上で重要な論文です。他のゼミ生の方もぜひ読んでいただきたいと思います。
橋本

2012年2月21日火曜日

ハーグにて

    おとといからオランダのハーグへ仕事に来ています。宿舎はいつものメルキュールですが,昨日は仕事帰りに周囲を少し散歩しました。
    ハーグにはさまざまな名所がありますが,ビネンホフはその中でも欠かすことのできない場所のようで,平日にもかかわらず結構多くの観光客がいました。
    ビネンホフは,今も国会議事堂などとして使われている歴史的建造物ですが,その中庭には誰でも入ることができます。次の写真は,その外観。後ろに超モダンな建物が見えます。ハーグでは今,高層ビルの建設ラッシュとなっています。



    ハーグは歴史と未来が交差する街です。
橋本

2012年2月15日水曜日

ミニガイダンス

    3年生有志で就職ミニガイダンスに参加しました。講師は大学職員で先輩でもあるM氏。ご自身の経験も踏まえた,大変役立つ情報満載の有意義なセミナーでした。就職大氷河期ともいわれますが,ゼミ生の就職活動の成功を祈ります。もちろん勉強が第一です。
橋本

抄読会

   第1回抄読会を開催しました。これから月1回ペースでやっていきます。
橋本

2012年2月4日土曜日

富士山と関ヶ原

   このところ関東方面に出張が多く,この2月だけでも3回ほど東京に出張します。今月は他にオランダに一週間ばかり出張がありますので,関西にいる時間は半分くらいかもしれません。それにしても今年は寒い。とくに関東の寒さは空気が乾いていて本当に寒いです。
   しかし悪いことばかりではありません。寒い北風のおかげで東京の空気もかなり澄んでいて,ご覧のように,朝には青山の定宿から雪化粧の富士山がくっきり見えました。
   帰りの車中でも,うとうとしながらふと外を見ると富士山と間近にご対面です。

   ああついているなと,出張の疲れもとんだように思えたのですが,次に目覚めた時には,関ヶ原。

   列車は猛吹雪の中で徐行運転。おかげで大幅な遅れが生じて,また疲れがどっと出ました。まあ,その景色もご覧のようになかなか趣がありましたが。さてさてオランダはどうなることやら。それについてはまた今月の後半に。
橋本

「もしもし」「こんにちは」

  最近は経済にしても政治にしても中国関連のことが多いように思います。良いことも悪いこともありますが,共通して感じるのは,同じ東洋人でありながら,価値観は結構違うなということです。
  ところがオランダではどうも日本人と中国人は同じように見えるらしいですね。われわれが,アメリカ人とイギリス人,ドイツ人とオランダ人の区別がつかないようなものかもしれません。
    イギリス英語とアメリカ英語はアクセントも使う単語も違うそうですが,私にはあまりよく分かりません。オランダ語とドイツ語は違うから分かるというものでしょうが,オランダ語は,そもそも低地ドイツ語というドイツ語の分派と見られていますから,少しなまって話されたら,やはり区別は難しいかもしれません。
   それよりも何よりもオランダ人は英語が非常に達者です。これは結構有名なのではないでしょうか。資源のない小さな国の生き残り戦略と見ることもできます。そんなわけで,英語教育は徹底していて,英語を話しているオランダ人をオランダ以外の国で見かけたら,オランダ人として識別できないと思います。
私が留学したライデン大学では,2006年当時でも修士課程以上の授業はすべて英語でした。学位制度などを統一したヨーロッパの大学間競争を勝ち抜くためには必要な措置だったようです。ですから大学ではほとんどオランダ語を使うことはありませんでした(実際使いこなせるような能力も私にはありませんが)。今はもう学士レベルでもそうかもしれませんが,まだ確かめていません。
また,オランダでは,街中どこでもたいていの場所では英語で済みます。これも本当かどうか確証はないですが,「オランダ語が50年後に存在しているか」という若者への問いに,大多数が無くなっているという回答だったそうです。少し残念な気もしましたが,さもありなんと思います。それほど英語が自然と出てくるのです。
最近東京大学の秋入学移行が話題になりましたが,それが本当に国際化,外国人留学生の大量受け入れのためというのならば,授業もすべて英語にすべきかもしれませんね。東大の先生もすべて英語で授業となればさすがに大変でしょうね。
ただし,私はやはり日本人には日本の文化や歴史,そして,日本語の基本をしっかりと教育した上でやって欲しいと思います。ボーダレスの時代に国という概念がすでに古いのだというかもしれませんが,日本人として生まれた限り,やはり生まれ育った国の人間としてのアイデンティティをしっかり身につけないと,結局は他の国やその人々との違いが分からず,真の意味の相互理解,それを基礎とした国際化にはつながらないのではないでしょうか。  
   それはともかく,オランダにおける日本人と中国人の区別に話を戻しましょう。ある中国からの留学生が知り合いの日本料理店経営者に,ぜひ日本人として働いてくれといわれたそうです。日本語も話せないから無理だといっても聞かない。黒髪に黒い瞳だから大丈夫といって是非にということだったようです。ヨーロッパの人からすれば区別がつかないのですね。
   その頃,アムステルダムの裏通りに「もしもし」という店がありました。電話屋さんではありません。日本料理店です。ちなみに,ユトレヒトには「こんにちは」がありました。どうしてこんな名前にしたのか,誰の入れ知恵かはこの際問題なしとしましょう。
両方の店に共通だったのは,カウンターのメニュー表に日本のビールメーカーA社の文字があることでした。これも確認していませんが,A社の海外戦略の一環なのかもしれませんね。
   怖いもの見たさもあって,「もしもし」に行きました。夕食時なのに客は一人もいない。いかにも日本の居酒屋といった雰囲気を作り,今や日本でも,もはやそれはないだろうという演歌の有線放送(?)が流れ続けていました。昭和です。
   従業員は東洋人らしい板さんとウエイトレスさんが二人,オランダ語ができないやつと見られたのか英語で受け答えしてくれ,席はあえてカウンターの,板さんの動きが一番見やすいところにしました。
   注文時にウエイトレスさんに,日本人ですかと聞くと,まさかという表情で中国人というお答え。板さんは,日本人は寡黙という演技なのかは分かりませんが,一言も語りません。目も合わせません。まあいいかと気を取り直し,まずは,お造りの盛り合わせとビールを注文しました。そして,いよいよ運命の時が来ました。
    板さんはウエイトレスさんから注文を聞き,ネタを冷蔵庫から取り出して長い刺身包丁を構えました。あッ,私はその瞬間彼が中国人であることを確信しました。彼は包丁をネタに押し当て,そして押し切りにしました。そう,日本人は包丁を引きます。決して力づくでは押し切りません。やはり板さんも中国人だったのです。そして,柳刃の包丁が傷むぞという心の叫びも届かず。ネタは押しつぶされるように切られていきました。
   味はどうか。久しぶりに大根でできた刺身のツマを食べることができてよかったというのが,その時の思い出です。ご理解ください。
なお,昨年近くを通った時にはすでに閉店していました。文化の違いを分からせてくれる意味で良い店だったのに残念です。復活に期待したいと思います。

橋本