2011年12月28日水曜日

オランダ・ワンダーランド(第4回:昨年の今頃)

昨年の今頃
    家人から,年末に家に何日もいるなんて珍しいといわれ,さて昨年はどうだったかと思い返してみました。
    そう,ちょうど1年前はハーグの公文書館で史料集めをしていました。その日の仕事が終わった後,数年前,1年間過ごしたライデンまで,懐かしさに誘われて足を延ばしました。この写真はその時撮った私が住んでいた家のすぐ裏の運河の様子です。
    近年,温暖化の影響か,運河一面に氷が張ることが少なくなったようですが,さすがにこの時は,まだ薄いものの見事に張っておりました。

  
     オランダにはスケートマラソンというものがあります。私は見たことがありませんが,オランダ観光局のホームページでも取り上げていますのでご覧ください。夏のサッカーと冬のスケートはオランダ人にとって,切っても切り離せないもののようです。
    http://www.holland.com/jp/tourism/article/elfstedentocht-jp.htm
    さてどうやら,年末はオランダというのが私の通常の生活リズムかと思っていましたが,パスポートを見ると昨年は2月にもオランダに行っていて,結局,年末か年度末には行っているようなので,どうも珍しいというのは,数日も家にい続けることの方らしいですね。それはそれで問題ありですか。
橋本

2011年12月25日日曜日

思い出の先生方(興津先生編:その2)

1223日をむかえて
     昨年の1223日が生前の興津先生にお目にかかった最後の日であった。
    この日,私は,私が部会長を務める日本簿記学会簿記理論研究部会をキャンパスプラザ京都で開催した。興津先生はそこに顧問として参加してくださったのである。
    この部会の立ち上げにも興津先生が関わっている。その基本的コンセプトは先生との車中の会話で始まった。「ふーん。面白いがな。インタビューなー。わしも昔やったで。あれはな・・・」といろいろアイデアをくださった。それで部会長は誰にやっていただくのが良いでしょうかとお尋ねしたところ,「あんたがやったらええんや。なにいうてるねん」と笑い飛ばされた。
    この学会の研究部会は理論・教育・実務と3つある。ちょうど昨年はその3つの部会が2年の研究期間を終了する時期にあたったのだが,当時の部会長さんたちは皆,50代後半以上の大先生たちであった。それに比べて私はまだ若く(学界ではまだこれで通用するはずだが),業績もないのにと躊躇しているとさっさと書類を準備するよう催促をされた。
    意を決して書類を作成しメンバー表を見せると先生は,「わしも委員で入れてんか」といわれた。私は一瞬,何をおっしゃっているのかが理解できなかった。話は前後するが先生は当時,日本簿記学会会長であり,現役の会長が部会の委員をされるなど前代未聞だったからである。
    そこで,ご要請は丁重にお断りし,その代わり顧問として入っていただき,またインタビューも受けていただくことで了解を取り付けたのである。先生はご不満だったようだが最後は引き受けてくださった。
    その日,1223日の午前,先生をいつものご自宅裏の通りまでお迎えに上った。これもいつものとおり,先生の奥様がお見送りに出てくださり,われわれは京都の会場に意気揚々と向かったのである。車中がいつもの笑いに包まれたのはいうまでもない。
    研究会は多くの先生方にお集まりいただき成功裏に終わった。その後はざっくばらんに懇談になったのだが,先生はややお疲れ気味であった。しかし,会が進行し始めるといつもの興津節が炸裂し,若手(しつこいようだがあくまでも学界基準である)の多い部会委員は,大盛り上がりとなった。
  そして最後は先生を皆でお見送り。京の都の大路,烏丸通に乗り出し「お疲れ様でした」の大きな掛け声をかける部会委員たち。車から「ほななー」とそれに応える先生。師走の都の道行く人々はこの光景を何と思ったであろうか。少なくとも大学教員の集まりとは思わなかったはずだ。
    車中の先生に「なんかどこかの親分さんのお見送りみたいでしたね」とちゃちゃを入れると,「あほいいなー」と上機嫌。いい部会やったな,よかったな。これで目処がついたなと,ねぎらってくださった。うれしかった。いつもにも増して四方山話に熱中し,間違わないはずの道さえ間違ってしまう始末であった。
    あと10分もすれば先生のご自宅という頃,先生はいつものとおり奥様にメールを出された。もう着くという合図である。先生は奥様思いであった。その儀式が終わった頃,十八番の話を聞かせていただいた。お題は先年亡くなられたTR先生との思い出である。TR先生は先生の兄弟子であり師匠でもあった。
    先生が近畿大学に転任するに際してのことであるから,もう四半世紀以上も前の話である。TR先生はこの転任話にあまり賛成ではなかったそうだ。その理由もお聞きしたがここでは憚りがあるので割愛する。ただ興津先生がすでに転任を決意しているとわかるとTR先生は,面接はいつかと聞かれ,その日は私も近大まで一緒に行こうといわれたという。
    先生は恐縮したそうだが,TR先生はかまわないといい,結局先生の面接が終わるまで近大近くの喫茶店で待っていてくれたそうである。後にわが国の簿記・会計学界に名を残すお二人である。いろいろなこともあったと仄聞しているが,二人の大先生が,保護者と受験生のごとく,長瀬の駅(近大の最寄り駅)から近大までを並んで歩く姿を想像するだけで感慨深いものがある。
   この話をするときの興津先生はとても幸せそうであった。そして,最後はいつも「寂しいな」とTR先生を偲ばれるのも常であった。
    そうこうする内にご自宅に着き,先生と奥様に年末のご挨拶をした。来年も頑張ろうとお言葉をいただき帰宅した。ここらあたりの印象がとても薄い。もっと最後にお話をしておけばよかったと悔やまれる。しかし,明くる年のお別れなどまったく想像もしていなかったのだから仕方がないと,自分を納得させようとしているが今もって納得しきれていないのである。
  1223日はこれからも当分,興津先生を思い起こしてはため息をつく,そういう日になるだろう。

橋本

2011年12月24日土曜日

思い出の先生方(興津先生編:その1)

寛容と短気
    興津先生と私の接点は,先生の略歴を見る限りほとんど見出すことができない。かろうじて日本会計史学会の会長と幹事という間柄だけが,公式の接点とし残されているだけだ。しかしながら,今年1月に亡くなられるまでの約10年間,私にとってはもっとも身近な先生のお一人であった。
  興津先生との出会いはいつだったか,本当のところは良く覚えていない。どこかの学会の懇親会で「彼氏の司会引き受けたるでぇー」と例の明るい調子で,私の発表の司会を引き受けてくださったときだったと思う。
    わが国会計学界の巨星・山下勝治先生最後の弟子(先生は山下ゼミ博士課程の最後の弟子。修士課程の最後の弟子は,松山のH先生),日本会計史学会,日本簿記学会の元会長。多くの若手を引き上げ,育てた名伯楽であった近大の大先生。そんな名声よりも何よりも,老若男女問わず多くの研究者に囲まれて,わいわい楽しそうにお酒を楽しまれるお姿が多くの方々の心の中に残っているだろう。寛容と笑顔は興津先生そのものといってよい。
    しかし私は,先生が実は非常に短気だったのではないかと考えている。先生とは先生のご自宅と拙宅が比較的近かったこともあり,学会や研究会の行き帰り私の車でよくご一緒した。そんな時,「ちょっと寄っていこか」とお茶や食事に誘ってくださった。先生なりの気遣いである。
    そんな時は自然と関係する学会や共同のお仕事の話になる。学会の中には,自分も含めてだが,不義理な人や自分勝手な行動をする人も当然いる。そういうことが話題になると先生は急に,いつもは見せない厳しい表情をされ,二人の間は非常な緊張感に包まれるが,その次の瞬間,「まっ,しゃーないわ,あはは」と一笑に付され談笑を続けられるのが常であった。
  実は私も先生の怒りをかった一人だ。私が今の大学に移籍するかどうかという時期の話である。先生には日頃から大変気にかけていただいていたので,早い時期にご相談しておかねばと考えた。当時,先生には,私の前任校に大学院の非常勤に来ていただいていた。そこでその授業が終わった後,お茶にお誘いしお話しをすることとした。先生はだまって私のお話をお聞きになっていたが,私には先生が気分を害されているのがよく分かった。先生とすれば自分が以前に差し伸べた話には乗ってこなかったのに,今さらなんだということであったろう。
  しかし先生は,ついに最後までそのことを口にはされなかった。話を聞き終わった後,「そうか,わかった。頑張り」とだけおっしゃって,その後はご自分が移籍された時代の話をしてくださったように思うのだが,終始恐縮していた私はほとんどその内容を覚えていない。
    寛容と短気。この矛盾を抱えながら,自己を抑制し他人を傷つけず,人の良いところを見ようとされた興津先生。私はまだまだ先生のようにはなれそうもない。

橋本

2011年12月18日日曜日

オランダ・ワンダーランド(第3回:オランダの自転車事情)

    オランダは自転車王国です。オランダの正式名称はネーデルラント王国(Koninkrijk der Nederlanden)ですが,ネーデルラントは低地という意味です。国土の多くを干拓して作ってきました。それゆえ,「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」といわれます。実際,国土の4分の1は干拓地です。
   有名な風車はその水のくみ出しに使われていたのです。ですから山が無い。フラットな国土なので自転車がもってこいなのです。夏などはポルダー(干拓地)の中のどこまでも続く道をサイクリングする人をよく見かけます。
   最近日本でも,エコやヘルス,あるいは,大震災時に帰宅難民が多く出たことから自転車の利用が見直されちょっとしたブームですが,一方で,歩行者との接触事故や,ピストと呼ばれる競技用のノーブレーキ自転車の摘発といった記事をよく目にするようになりました。
   自転車王国のオランダではどうでしょう。私がオランダにはじめて行った10数年前,オランダの自転車にはほとんどブレーキがついていなかったように思います。オランダ人が皆が皆ピストに乗っているわけではありません。普通の自転車にもついていなかったのです。普通のと書きましたが,フレームもタイヤも日本のものよりずっと頑丈ででかいのです。オランダ人男性の平均身長は180センチを超え,女性も170センチを超えていますし,石畳が多くやわなフレームやタイヤでは耐えられないのかもしれません。
   止めるときはどうするのか。そこは長い足が役に立ちます。バッと伸ばせばたくましい足が地を踏みしめ踏ん張って自転車は止まる。あるいは,腕に力を入れ思いっきりハンドルをねじって,前輪を進行方向に直角にしてガガガッと止める。ダイナミックですね。
   しかし最近は,ブレーキのついたものが増えたように思います。法改正があったのかもしれません。変わらないのは,少し細めの綱引きの綱ほどの太さもある鎖の鍵です(想像できますか?)。オランダは自転車の盗難も多いのです。だからその防止のためですが,それにしてもこんなに太くなくても良い鍵があるじゃないかと思いますし,実際売ってもいるのですが,皆好むのはこの太いやつです。
   さて日本とのもっとも大きな違いはどこかといえば,それは自転車専用道路があることです。街中には,歩道,自転車道,車道と三つが並行にあります。だから安全。なれないうちは知らぬうちに自転車道に入り込んで轢かれそうになったことはありますが。 信号も三者でシェアしますから,歩行者はカタカタカタカタ・・・・・という効果音にせかされて30秒ほどでわたりきらねばなりません。慣れればなんということもないのですが,最初は戸惑いましたね。
   この道の整備には数百億円単位のお金をかけたそうです。これはすごいですね。日本はワークシェアリングなどでもよくオランダを手本に議論をしてきましたが(この件はいずれまた),こういった政策を実行するにはコストがかかるのだという覚悟を決めてからやらねばなりません。法律を変えて自転車を車道に移すだけではなく,ちゃんとインフラも整備して,そのためのコストを国民自身が負担する覚悟も必要なのではないでしょうか。

橋本

2011年12月15日木曜日

オランダ・ワンダーランド(第2回:オランダのことども)

オランダについて,私がかねて書いた随筆のリンクです。http://www.hakutou.co.jp/boki/news/pdf/49-7.pdf

思い出の先生方(須田先生編:番外)

須田先生に関して私が書いた記事を掲載したサイトです。http://www.kaikeijin-course.jp/acc5.pdf

オープンゼミ

   今日はオープンゼミの初日でした。多くの方が来てくれました。ありがとうございました。あまりいわないようにとは思ったのですが,正直に申し上げてうちのゼミは勉強中心で遊びはあまりありません。まだ始まって来年で3年目なので,ゼミの色はそれほどついていませんが,勉強中心という方針はあまりにも当たり前すぎますが,これからも変えません。
    今日のゼミでは,とくに後半に来てくれた方にとってはマニアックだったかもしれません。よくいえば専門的。先輩のゼミ生が今行っている共同研究の中間報告をPowerpointを使ってやってくれましたが,勘定科目がどうのこうのとかなり込み入った話になりました。私自身は,だいぶ会計のゼミらしくなってきたなとうれしく思っています。
    ゼミの行事には皆で参加してほしいです。合宿は年2回を予定しています。うち1回は他の大学(今のところ,明治大学からお誘いをいただいています)のゼミとの合同になります。
    一つお願いは,私のブログの方でも書きましたけれど,「友達が行くから」とか「友達が他に行くから他に」というような消極的な選択はしないでいただきたいということです。また,うちは確かに簿記の勉強会をしますけれど,それはあくまでも一側面にしかすぎません。それだけで来られるとしんどいと思います。
    これを読んでくださっている皆さんのゼミ選択が,良い結果になることを心からお祈りいたします。
橋本武久

2011年12月12日月曜日

検定試験とゼミ活動

   会計のゼミである以上,簿記の知識は必須と考え,うちのゼミでは日商の3級は必ずとるようにいっています。まだ2年目のゼミですが,全員が,というとなかなか難しいらしく,さきほどやっと最後の一人から合格したと連絡がありました。まずはおめでとう。
    しかし,今回合格した3年生の2名は,少し時間がかかりすぎたように思います。彼らの実力なら,やる気があれば3週間でとれるといつもいっていましたので。いろいろ事情はあったのでしょうが,それを言い訳にしていては何も始まりません。これを糧として,今頑張っている就職活動では,ぜひ良い結果を残してほしいと思っています。
    2年生でまだ合格していない方にも奮起を促したいですね。すでに今回2級に合格したという方から連絡をいただきました。普通科高校出身で,6月に3級,11月に2級というのは頑張っているなと感じさせます。まだどういう進路を進むべきかは悩んでいるようですが,この努力をするという姿勢を忘れなければ,どの道に行こうとうまく行くと思います。頑張ってください。
さて,前々からやろうとしてなかなか進まなかった上級者の勉強会ですが,新しい試みを考えました。名前は「抄読会(しょうどくかい)」。読んで字の如しですが,長く続けて行きたいと思っています。詳細はメールでお知らせします。
橋本

2011年12月8日木曜日

「です,ます」調と「である」調

論文を書くときには「である」調で書いてほしいと思いますが,普段の文章は「です,ます」調の方がやわらかくて良いなと個人的には思っています。やってはいけないことは,両方入り混じること。ゼミの発表でも時々見かけますが,これは勘弁してください。
このブログでは,基本的に「です,ます」調で書きますが,「思い出の先生方」は,「である」調で書かせてもらうことにします。いまさらですが,ご了解ください。

書評大賞

もう旧聞に属するかもしれませんが,ゼミの2回生,屋敷君と清水(大)君が,図書館の書評大賞に入選しました。とくに,屋敷君は2年連続ですから,たいしたものです。この才能をぜひ今後も延ばしてほしいと思います。来年もみんなで挑戦してください。

2011年12月3日土曜日

オランダ・ワンダーランド(第1回:ごあいさつ)

研究の関係からオランダには1年に1回くらいは行きますが,そのたびに何かしら発見があります。けっこう不思議なことが多い国なのです。だからここの名前も「オランダ・ワンダーランド」にしました。
思いつくままに書きます。時系列もばらばらです。思い違いも多いと思います。だからあまり信用しないで,読み流していただけたら幸いです。
では今日はとりあえず,ご挨拶まで。
橋本

2011年12月1日木曜日

思い出の先生方(須田先生編:その6)

須田先生とのお別れ
   調子が悪い悪いと仄聞しながらも,先生のことだから奇跡の復活があるのだろうと最後ま で信じていた。ただどう見ても調子が良くない,しっかり休養してほしいと思っても,先生は研究こそが生きがいだからと譲らなかった。
   さすがにこれでは遺憾となって,4月にどうしても休んでいただこうと説得をする覚悟でお訪ねしたが,その際は先生もついに療養することを受け入れられていて,少しほっとした。
   5月に長く住まわれた大津に帰り,日赤病院に入院し加療されていた。私が最後に訪ねたのは521日の日曜日であった。「橋本君ね,回復基調なんだよ」といきなりの前向き発言で,先生らしいなと思った。長年の同志でもあった奥様と目の中に入れても痛くない愛娘さんに付き添われ,先生は満足そうであった。
その際もいつものように昔話に花を咲かせバカな話にお互い大笑いしたが,先生は,この日は何でもある学会の司会を引き受けていたそうで,それが叶わず申し訳ないことをしたと気にされていた。先生らしい気遣いと思いつつ,正直あきれてしまった。
ただ,いつもは厳しい先生が,「橋本君はさ,学会の賞を二つもとっているんだよな。よく頑張ってるんだよ。産大も大切にしてくれるよ。だけど人がいいからってなんでもかんでも引き受けちゃ大変だよ」と声を掛けてくださった。それはすべて先生に当てはまるではないか,頼まれて断ることをしなかったのは先生ですよと心の中で反論したが,ありがたいお言葉と素直に受け入れることとした。初めてで最後のお褒めの言葉であった。
   その週末には沖縄で簿記学会が開催予定であったが,それにも参加できないと残念がられた。そこで,私は沖縄で何かお土産を買ってきますから,また学会の報告にお訪ねしますよといって部屋を出た。
   見送りに出てくださった奥様からは,もう1週間持つかどうかわからないと告げられた。それでも私はどこかで先生の復活をまだ信じていた。しかしそれは根拠のない期待でしかなかった。530日の夜半,奥様からメールでその時が近づいたとのメールをいただき,翌朝お伺いするとの返信を送った。
   平成23531日は忘れえぬ日となった。朝9時頃に病院に着いたところ,奥様から携帯に電話があり,その少し前に亡くなられたとのことであった。間に合わなかったのである。病室ではいまだ事後の処理が行われ,廊下で待たせていただいた。
   少しして病室に通された。そこには安らかに眠る先生が居られた。奥様とともに対面し先生とゆっくり話すことができた。もちろんお返事はないのだが,話している気分になった。そして,こういう場に立ち合わせていただいたことに深く感謝した。
   その後,先生のご遺体とともにご自宅に向かった。先生のすぐ下の弟様のお車に乗せていただいたのだが,先生に瓜二つのお姿お声で時々先生と話している錯覚に陥った。ついてからしばらくし,先生の後継者であるS先生も来られて段取りも一段落したので,大学に戻ることにした。
先生のご自宅から大学までは比叡の山越えで30分ほどである。ご長男が車で送ってくださったが,さすがに先生と錯覚することはないものの,やはりどこか先生に似ているなと思った。金融関係の会社に就職されて2年ほどだが,仕事の関係で資料を探していると先生のお名前が良く出てくるようになり,あらためて親の仕事を理解したそうだ。
   お通夜,告別式とめまぐるしく時間が過ぎた。日本全国から多くのそうそうたる会計学者が駆けつけ,先生の学界におけるプレゼンスの高さをあらためて思い知らされた。私はその二日間,葬儀委員長を務められたN先生とご一緒した。N先生は須田先生の福島大学,一橋大学大学院での先輩であり,須田先生とはご厚誼が深くこれ以上にない方にお引き受けいただいたと思った。
    結局最後まで参列させていただいたが,やはりお骨上げの時が本当の別れだなと感じた。儀式ばったこの行為は何のためにあるのかと思っていたが,本当の諦めをさせてくれる貴重な儀式だと理解した。
    すべてが終わって感じたのは,須田先生が本当に多くの方に愛されていたということである。ご家族やご親戚,ご友人や教え子,研究仲間とそれぞれの方がそれぞれの思いで参列された。中でもやはり奥様はじめご子息や愛娘さんの先生に対する思いの深さをひしひしと感じ,先生は本当に幸せな一生だったのだなと思った。
   今はただただ安らかにお眠りくださいというしかない。合掌。

思い出の先生方(須田先生編:その5)

須田先生と私と研究と
   実のところ私と須田先生は,先生が実証会計,私が会計史と専門が離れ,同じ会計学の学界に身を置きながら,研究面ではまったくといって交渉はなかった。だから,先生が公認会計士試験委員になられ,『会計人コース』から試験委員の横顔と学説の執筆を依頼された時にも,私が書いていいのだろうかとわざわざ先生にお伺いを立てたくらいだ。
結果は,「当然だろう」の一言で,それでは書かせていただきますとなったのだが,さすがにその後の学説研究特集の方はお断りしたのである。なお,このときの記事は今でも需要があるらしく,googleで先生のお名前を検索すると上位5位以内に入ってくる。今読み返すと受験者にはまったく役に立たなかっただろうにと,少々後ろめたい記事である。
須田先生はいわずと知れた実証研究の大家で私は歴史研究である。これは何も今に始まったわけではなく,学部時代から路線は別であった。ただその頃に共通していたのは,制度会計に対する関心であり,これは中村忠先生の高弟である須田先生の本分かつゼミのテーマだったからである。
私は,3年生の時,学内の懸賞論文に応募し幸いにも2席になって6万円もの賞金をいただいた。1席になれば学内紀要に掲載可能となるが,2席はそれには及ばない出来ということだ。私は,その6万円で『会計学辞典』と『インタビュー日本における会計学研究の発展』を買ったが,出版社はともに後に私の処女作を出版してくださることになる同文舘出版で,辞典は神戸大学が編集といった具合であり,今思えばご縁があったのだと思う。
それはともかく,この結果に当時お世話になっていたS先生は手放しで喜んでくださったが,須田先生の方は,「費用収益対応の原則に対する君の解釈,あそこだけだな,いいのは」と手厳しかったことを覚えている。
研究者同士として交流がなかった理由はもう一つある。それは,大学院に進学するに際して先生から,大学院に進学し研究者になる以上,大学院時代の先生を一番に考えなければならないと申し渡されたことである。
先生は福島大学を卒業し,一橋大学大学院に学ばれた。同じように他大学の大学院に進学する私に対して,おそらくはご自分の経験もあって,これから就職や学界でお世話になる大学院の指導教授を大切にしろということであったと思うが,人が思うほど器用に生きることのできない私は,必要以上に先生と距離を置こうとしたところがある。それが先生にとっては不満であったかどうかはわからない。
同窓会では学部ゼミ卒業生という立場だからもっと気楽に話すことができると思っていたのだが,常に主催者の立場であったため,また,こちらはいつでも話ができるという気もあって,久しぶりに先生と再会された同窓生に先生の隣席を譲り,その場で話し込んだという記憶はついぞない。
このような距離感は,悪いことばかりではなかったような気がしている。たまに何かの機会に飲んで話し込んだ時に私は,先生の研究に対しても忌憚のない意見を述べることができた。先生の研究とは対極にいる私ゆえに持ちうる見方から,いろいろとお話をすることができ,先生もそれを是としてくれていたようである。
   私が実証研究に否定的だと思われたのか,「橋本君がやっている歴史研究もさ,結局,実証研究なんだよね」と,ニコニコ笑いながらおっしゃった姿が今でも目に浮かぶ。しかし,そういう話をする機会はもうないのである。

思い出の先生方(須田先生編:その4)

京都産業大学と須田先生
  昨年の春(平成224月),私は母校京都産業大学に移籍した。その一月前の3月に大津プリンスホテルで,私は主催者の一人として須田ゼミの同窓会を開催した。数年ぶりで,先生の病状を横目に見,ひやひやしながらであったが無事に開催ができ,多くの方々が参加してくださった。
(この同窓会について少し説明を加えておく。須田ゼミ同窓会と称しているが,実はゼミ生だけの集まりではない。須田先生が指導をされた,京都産業大学,関西大学の学部ゼミ生以外に,京産大に当時あった会計職講座センターという課外講座で指導を受けた方々,関大では大学院のゼミや講義で指導を受けられた方々や同じく課外講座等で先生と接せられた方々が,その出身に関わらず一堂に会するというユニークな組織となっている。これはもちろん,先生のお人柄によるところ大であるが,その意を汲んだ関大出身のN氏やK氏が常に共同主催者として協力してくださったために実現したことも銘記したい。)
さて参加者は皆,先生の闘病中のお姿に驚きを隠せなかったが,先生自身はいたって前向きで,ご自身のこれまでの歩みとこれからの抱負を力強く語られた。そのスピーチの中で先生は,自分がお世話になった大学のすべてに自分の教え子がいる。神戸大学にはS先生とT先生,関西大学にはO先生,そして京都産業大学に私が移り,これは学界では稀有なことでありちょっとした自慢だという話をされた。なるほど,そういえばそうかもしれないと思いつつ,私は新しい大学での活動を始めることとなった。
須田先生が京都産業大学経営学部に赴任されたのは,昭和59年のことであった。これは先生の恩師,一橋大学名誉教授中村忠先生(故人)からお聞きしたと思うのだが,その赴任には少々事情があったという。当初赴任するはずであった大学の話が土壇場でダメになり,急遽,本学に赴任が決まったのだそうだ。最初に声を掛けた大学には悪いが,私にとっても本学にとっても勿怪の幸い,ラッキーなことであった。
須田先生はよく京都産業大学に赴任したての頃の話をされた。当時,大学から歩いて15分くらいのところにあった職員住宅に住まわれていたが,「この前の雨の日があったじゃない。傘を忘れてね。濡れて帰るかと思っていたらさ,産大の女子学生さんがどうぞって,傘に入れてくれたんだよね。感動したね」。先生はとても純なところがあった。
大学職員住宅の隣人の多くは若手の職員の方々で,今では大学の幹部になられている方も多い。私が本学の出身者という話になった時には自然と出身ゼミの話になるが,須田ゼミと聞いて,昔ご近所でしたという方も結構いる。
この職員住宅時代の話をする時,先生は本当に楽しそうであった。この春,先生を日本橋のご自宅に見舞った際も,「○○さんはどうしてるの?えーっ,そんなに偉くなってんだ。昔はね・・・だったんだけどなぁ」。「昔はあれだよ,教職員が一緒に遊びに行ったりなんかして,本当に楽しかったんだよな」。話は尽きないのである。先生にとってこの時代が,何のしがらみもなく,掛け値なしに楽しい日々であったのであろう。
もちろん教員の中にも若き時代を共有された方々もまだ多くおられ,当時は二人部屋であった研究室でお互い頑張ったよと懐かしまれる先生や,ここに戻ってくればいいのにと思っていたんだという先生方さえおられる。しかし,おそらく先生の研究に大きな影響を与えたであろう経営統計学のM先生は,一昨年急逝されており,これには先生も大きなショックを受けられた。
そんな方々が先生逝去の報に接し,心からの弔意を示してくださった。京都産業大学は先生にとって幸せな初任地であったのだと思った。

思い出の先生方(須田先生編:その3)

須田先生の涙
   須田先生に笑顔は似合っても,涙は似合わないと誰しも思うだろう。どんなに苦しくても前向きに考え,生きるのが先生の身上だからだ。
ただ例外もある。愛娘さんのことだ。私は何度か同窓生の結婚式で須田先生と同席した。その時,必ず泣く。それは決まって新婦からご両親への挨拶の時である。これが始まるともうだめ。正確にいえば,これが始まる30分くらい前からウルウル状態なのである。
どうも新婦の姿が愛娘さんに重なり感情を抑えられないようである。だから普段はしない失敗もされる。主賓としての挨拶で,「新婦のチナさんは・・・,それで,チネさんは・・・,また,チノさんは・・・」と,ナ行の三段活用で名前を間違えドン引きさせられたことがある(ちなみに正解はチノさん)。もちろんその後,私の挨拶の中でフォローしたのだが,「おい,黙ってりゃわからなかったのに,いうなよ」と破顔一笑。いえいえ,皆様気づいておりました。一度休暇をとって病院に行ったほうがよい,疲れているのですよと真剣に勧めても,大丈夫だからと上機嫌。
しかしこんな時でも,やはり最後はだめ。新婦挨拶で号泣である。何でそこまでというくらい目を真っ赤にされる。なお,私が同席した式はすべて「新郎側」であったことを書き添えておく。だからよけい目立つのである。
愛娘さんの結婚式での号泣。これができなかったことが先生の一番の心残りだろうと思う。きっと素敵な花嫁さんになられますよ。天国で号泣してください。今はそう申し上げるしかない。

思い出の先生方(須田先生編:その2)

須田ゼミでの勉強
   須田ゼミの指導は厳しい。これはどのゼミ生にも共通の認識ではなかったか。
私はそのころすでに大学院に進学することを決めていたが,先生からの質問にうまく答えられない時など,「大学院に行こうかって人がそんなこともわかっていないなんてダメだね」などとしょっちゅういわれた。また,先生は英語ができなくてはダメだから卒論は英語の文献を参考にして書くよう指示された。
   2月末,関西大学の先生の研究室に呼び出しを受け,1冊の洋書を渡された。G.J. Staubus, An Accounting Concept of Revenue であった。100数十ページほどの本であったがこれを春休み中に訳しておくよう指示され,「1ヵ月もありゃ十分だな。それくらいで訳せなきゃダメだよ」とプレッシャーもかけられた。
   英語は今もって自信がない。当時の私にはそのたった100数十ページが何万ページにも思えた。しかしやるしかない。毎朝8時から夜10時まで,この時は本当に一日中,まだ春浅い上賀茂の下宿のこたつに入り翻訳に専念した。
   最初の数日は,11ページが限度で,どうしようもない焦燥感に包まれた。それでも続けているとコツがわかりだし,どうにか3月の終わりには1回目の全訳が終わった。先生に連絡を入れると,「えーもう終わったの。思ったより早いじゃない」。一月前の「1ヵ月もありゃ・・・」というあの言葉はなんだったのかと恨めしく思った。
   須田先生から翻訳文をゼミで発表するようにといわれた。「このコストが・・・」。「橋本君,コストは原価か費用って訳すんだよね。コストってのは,どうかな。ちょっと見せてみろよ。・・・・・こりゃコストとしか訳せないな」。
   こういう発表をゼミでやられた日には,他のゼミ生にとっては迷惑な話であったろうと思う。勉強はゼミの後にも続いた。場所は,上賀茂神社近くのタナカコーヒーと決まっていて,加茂川に面した窓際の席を独占し,コーヒー一杯で長時間,いい歳をしたおっさん二人が洋書を片手にああでもないこうでもないとやるのだから,店にとっても迷惑な話であったろう。
   そんなある日のことである。いつもは時間を気にせず指導をしてくださる先生が,いやにそわそわとしていた。「いやー,実は今日,家内が出産予定なんだよね。こういう時にさぁー,その場にいないと一生恨まれちゃうからな。橋本君も気をつけたほうがいいよ」とうれしそうに話され,愛車で走り去られた。その時生まれた愛娘さんはもう立派な女子大生となっている。

思い出の先生方(須田先生編:その1)

須田一幸先生編:その1
須田先生との出会い
  私の勤める京都産業大学のゼミ生募集の要項には,「ゼミを選ぶときのアドバ
イス」という項目がある。
私は,この中で決まって,「友達もそこのゼミに行くからではなく自分自身で決
める。私のゼミの先生は『私立大学の教員は教育で給料をもらっていることを忘
れてはいけない』といっていた。その後,研究者としても超一流になった先生を
見て,私の人を見る目もまんざらでもなかったなと思う」といったことを記して
いる。
  この先生はもちろん須田先生のことである。私と先生の出会いは,先生がロチェ
スター大学での留学から帰国された,平成元年頃であったと思う。私は紆余曲折
あって京都産業大学の2年生に再入学し,その時すでに25歳。とうの立った学生
で,ほかの学生と違って少々ひねくれていた。そこが先生の目に入った。
  どの講義であったかは覚えていない。ただ,先生の授業は非常にパワフルで刺激
的であった。これは先生の講義を受けたどの学生も感じたことだと確信する。気
力充実の上に準備万全だから怖いものなしだ。授業の後にはいろいろ疑問に思っ
たことを聞きに行く。行けば,即座に的確に,そして,いくらでも時間を惜しま
ず話をしてくださる。私は,3年生からはこの先生のゼミに行こうと決めた。
  ところが問題が発生した。先生が関西大学に移籍されることになり,急遽,ゼ
ミの募集がなくなったのである。「僕たちゃ将棋の駒みたいなもんなんだよな」
といった先生の言葉の意味が,今ならよくわかる。「君のことは,S君(現在専
修大学教授)に頼んどいたから,しっかり勉強するんだな」といわれ,私はS先
生のお世話になることになった。
  一度あることは二度ある。それから1年もしない3年生の秋であったと思うが,今
度はS先生が専修大学に移られることになり,私は再び途方に暮れた。須田先生
とは,先生が移籍後もいろいろ指導を受けていたので,他のどの先生のお世話に
なろうかとご相談をした。先生はいつもとは違いその際あいまいなお答えをされ
た。
  数日たって,当時の学部長T先生からお呼び出しがあった。T先生から,「まっ
たく異例ですが,須田先生にあなたのゼミの指導をお願いすることにしました。
須田先生も快諾してくださいましたから,あなたからも御礼をいっておいてくだ
さい。あなたのために来てくださるようなものですから」と告げられた。その夜,
私は先生にご連絡をし,御礼を申し上げた。先生は,「がんばらなきゃな」とだ
けいわれた。
(このT先生には再入学以来お世話になった。名誉教授となられた今もお元気で,
今年の夏にはお食事にお招きいただいた。感謝である。)

思い出の先生方:はじめに

はじめに
  ここに私的な思い出を書かせていただいた先生方は,私がこの世界に入るきっか
けを作ってくださった,あるいは,入ってから,折に触れ大変お世話になり,残
念ながらすでに亡くなられた方々である。
  このような思い出を書こうと思ったきっかけは,大切な方々とのあいつぐ離別
であった。本年1月に興津裕康先生(近畿大学名誉教授)が,5月には須田一幸先
生(早稲田大学教授)が逝かれた。両先生とも,今日私が,この世界でどうにか
お仕事をさせていただく上で欠かすことのできない方々であった。
  興津先生は71歳。新聞の訃報を見ると同年齢の方も多いわけだから,この悲し
い出来事も世間一般では不思議ではないのだろうが,興津先生が持っていた生命
力,太陽のようなパワーを知っているものからすれば,それはあまりにも早く突
然であった。
  須田先生は55歳。あまりに早く急なという印象を受けるが,2年以上にもわた
る闘病の果てであった。自身の復活を信じて疑わなかった先生は,最後までポジ
ティブな人生を全力疾走で駆け抜けられた。
  お二人の逝去はこれからの私の人生観にも微妙な影響を与えそうである。それ
はともかく,この機に私は,これまでお世話になりすでに幽明境を異にされた簿
記・会計学の先達たちの思い出をここに記し,会計学者として,大学教員として
の在り方を考えてみたいと思うのである。
平成23年12月1日

橋本武久

師走になりました。

早くも師走を迎えました。文字通り(?),「師=先生」稼業には忙しい季節なのですが,別にわれわれの仕事に限らず,この時期はあわただしいものですね。やはり何とか年内に片付けたいという気持ちがそうさせるのかもしれません。ちなみに気になったので調べたら,ここでいう「師」はお坊さんのことのようです。それ以外にもいろいろ説があるようで,日本語は本当に難しいと思います。
片付けたといえば,先日遅れていた論文の執筆が終わりました。最後の日は,研究室に泊り込みでしたが,夜中に暖房が切れて災難でした。不幸中の幸いは,季節はずれに暖かかったこと。朝方どうにか目途が立ち,廊下から西のゴルフ場を眺めたら,まだ弱い朝日の中,舟山(舟形の山)から見える範囲一面に,雲海のような霧が広がっていました。絶景でした。
大学の北方に,加茂川の基点となる雲ヶ畑というところがあります。ここの地名の由来もいろいろ説があるようで定かではないですが,私はきっとこのような風景が由来ではないかと思いました。皆さんも,京産大のすばらしい朝を体験してはどうでしょう。今なら午前6時頃がおすすめです。
橋本