2012年7月2日月曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その2)

   須田一幸先生の一橋大学大学院時代からの畏友であり,私の尊敬する会計史学者のN先生がこのブログのことをFacebookで話題にしてくださった。感謝である。そこでというわけでもないが,須田先生について今少し書き加えたい。
   私は,大学教師になってすでに17年目に入ったが,いまだに須田先生のような授業を一度も行なったことがない。かつて『会計人コース』にも書いたことであるが,須田先生の授業は準備万端,本当に隙がなく緻密で,しかも内容が最新で面白いのだから無敵であった。恥ずかしながら私は,そういう授業をまだできないでいるということだ。
  私が大学院に進学しようと考え出した頃の話である。愚問だったかも知れないが,私は須田先生に「研究と教育の割合はどれくらいですか」と聞いた。「73だな」とのお答えに,やはり研究が主かと思ったが,「教育が7で研究が3だな」と言葉を重ねられた。
  その心は,「橋本君ね。私立大学では教育が主なんだよ。僕らのお給料もさ,教育でもらっていることを忘れちゃダメだね」とのことであった。なるほどと思いつつ,なんとなく不思議な感じを受けた。
   今考えるとその頃(1990年代前後)の先生は,ロチェスター大学での留学を終え,いよいよ実証会計学の須田として学界の表舞台に立ち始め,このすぐ後には日本会計研究学会賞も受賞された頃である。当然研究が第一という答えが返ってくるものと考えていたから意外だったのである。それは実際に教育熱心だった先生だからこそ説得力があった。
先生は,秋田湯沢の老舗の呉服屋さんのご長男だったので,余裕のある院生生活をおくられたと思われがちだが,そうでもなかったようだ。院生時代からたくさんの洋書を購入され,その購入費のために結構アルバイトもされ,そのアルバイトの一つが,簿記や会計を経営コンサルタントの方に教えることであった。
   コンサルに簿記を教えるというのも変わった仕事だが,先生はそこで出会われたHさんとも,その後長くお付き合いをされていた。Hさんは先生より2回り近く年上であったと思うが非常にお元気で,年に1度は先生の学部ゼミに顔を出し,講演をしておられた。
   Hさんのご趣味というか関心は粉飾決算で,実務の中でそれを発見し,われわれに披露するのを無常の喜びとされていた。会計は実践だよという趣旨だが,非常に面白くて,われわれはこの特別講義を楽しみにしていた。
  今思えばきっとその内容は先生の理想とするところとは違ったかもしれないが,自分の考えと違っても学生のためになればと,そういう機会を設けてくれたのだろう。そして,この講演にかかる費用はすべて先生のポケットマネーであった。
   私は母校京都産業大学に帰ってきて3年目の夏を迎えようとしている。あちらこちらでぼやくようでふがいないのだけれど,結構忙しく,どれもこれも中途半端な状態になっている。何をやっても手抜きをせずに一生懸命にやっていた先生から見れば,なんと情けのないことと思われるかもしれない。
   須田先生の師匠で一橋大学名誉教授であった故 中村忠先生は,どこかで「一流の研究者になろうと思わなかったが,教師としては合格点をもらえるだろう」いう趣旨のことをで書かれていた。そして,研究者としても教師としても超一流になられた。須田先生も同じ道を歩んだのである。
   私はもう,研究者としては,超どころか,ただの一流にもなれないだろうと観念している。せめて二流にはなりたいなとは,志の低いことである。ただ私立大学に勤めるものとして,教師としてはもう少し頑張ってみたいなと思っている。
停年まであと17年。今がちょうど大学教員としての折り返しの時期である。ゼミ生とわいわいやりながら停年を迎えることができればよいなと思っている。そして,さらに願わくは,あと1冊だけ,自分に納得いく本が書ければ最高だと思うのだが,こういうのを望蜀というのであろう。また,なんと小さいと須田先生に笑われそうであるが。
暑い夏,学会シーズンがやってくる。先日,先生の奥様が送ってくださった先生の形見のブレザーを着て,今年の夏も乗り切りたい。

オランダ・ワンダーランド(ミッフィーはメイド・インチャイナ?)

    いよいよフェルメールが日本にやってきて,予想通り初日から大盛況のようですね。いろいろフェルメールがらみの本も出ているようで,『ミッフィーとフェルメールさん』なんてのもあるようですね。
    このミッフィーというウサギのキャラクターがオランダ生まれというのは,もう結構有名かもしれません。本名(?)はNijntje Pluis(ナインチェ・プラウス)。オランダ中部のユトレヒトという街が生まれ故郷です。ここに住んでいる絵本作家ディック・ブルナーが生み出した世界的なアイドルですね。
   オランダ留学時代のある日,そのミッフィの公式専門店がアムステルダムのはずれにあると聞き,ここでしか手に入らないものを買って帰って子供たちに自慢してやろうと思って行きました。 「日本で売っていないものはどれ?」「わかりません」。なんと不親切な!気を取り直して,「じゃオランダで作っているのはどれ?」「わかりません」。馬鹿にしているのか!?気を取り直して「なんで?」「だって中国製だから」。なんと。道理で日本で見たようなものばかりだと思ったはと妙に感心しました。
    たしかに,説明書きはオランダ語だけれど,品自体はトイザらス と変わりません。中国恐るべし。どこでも中国製ですね。ちなみ中国語でミッフィーは米飛と書くそうです。日本製の車も海外で作る時代で,トヨタが国内生産にこだわるのがニュースになるのですから,それが時代の流れなのかもしれませんが,どこか空虚さを感じるのは,私だけなのでしょうか。

思い出の先生方(中村忠先生編)

中村忠先生のことども

    私のブログを見てくださったある先生が,「中村(忠)先生みたい」とおっしゃってくださった。最高のほめ言葉であり,かつ恐れ多いという感じである。
   一橋大学名誉教授 故中村 忠先生は,私の学部時代の先生で昨年亡くなった須田一幸先生の先生なので,私にとっては先生の先生である。会計学者なら誰でも知っている制度会計の大家であった。私は先生の『現代簿記』で簿記の勉強を始め,『現代会計学』で会計学のいろはを学び,そして,先生のエッセイ集の文章をお手本にした。
   今回のタイトルの「・・・ことども」も先生のマネである。先生の恩師,番場嘉一郎先生への追悼文がこういうタイトルであった。追悼文なのに「・・・ことども」。なんとなく違和感を覚えたのだが,語感のよさを買ってマネをさせてもらっており,一昨年の簿記学会ニュースでも「オランダのことども」と題して雑文を草した。
   中村先生のエッセイを読む限り,先生と番場先生の関係は非常に複雑で微妙であったようなので,このタイトルも何か含みがありそうだとも思うのだが,どこか諦観した余韻が感じられるのは私だけであろうか。先生の真意は何だったのか,もはやそれは分からない。
   私が先生に直接お目にかかりお話をさせていただいたのは,結果的に先生の最晩年であった。もちろんお目にかかったときは非常にお元気で,まだまだやるぞという鋭気さえ感じたのだが,最後にお目にかかってから1年もしないうちに忽然と逝去された。
   先生とはたった3度の邂逅であった。それは2007年の春から始まった。この年の春までの1年間,私はオランダのライデン大学に在外研究に出ていた。その折,イギリスのカーディフ大学に,当時,Academy of Accounting Historiansの会長をしていたW教授を訪ねる機会があった。
   W教授は日本の戦後の会計制度の成り立ち,とくに企業会計原則の生成に興味を持っていた。同教授のいうには会計原則の初期の成立過程が良く分からないし,それについての文献もあまりないということであった。
   そういわれればそうであるし,これはわれわれの会計学者の怠慢かなと思った。それでは誰に話を聞くのが良いかと考え,とっさに思い浮かんだのが中村先生であった。前述のように先生は制度会計の大家で,企業会計原則の改定を審議する企業会計審議会,その全盛期の主要メンバーであったからである。
   そこで私はオランダに帰ってさっそく中村先生にお手紙をし,インタビューをお願いすることとした。帰国までもうすぐの時期であり,日本に帰ってから出せばよいものを,私はあえてオランダから出すことにした。それは中村先生がエッセイか何かの中で,もうこれからは,送られてくる論文の抜き刷りやその他の礼状などは読まないと宣言されていたからで,私にはさすがにオランダからならば読んでくれるだろうとの狙いがあった。
   首尾よく,あるいは狙い通りといえば先生に失礼であるが,帰国後ほどなくして先生からお呼び出しの手紙をいただいた。それとほぼ同時に須田先生からは,「中村先生がどうして須田を通して頼んでこないんだって訝しげだったよ。まあ,何とかとりなしておいたけどさ」と,やんわりお叱りを受けた。先生のお怒りは当然だと思ったのでお詫びをした。
   オランダから出した事情は先の通りだが,須田先生を通さなかったのにはもう一つ理由があった。それは私と須田先生との距離にあった。当時の須田先生は,最高に乗っていた時期であり,向かうところ敵なしの様子であった。へそ曲がりの私はどうもそういう感じが苦手で,ついつい距離を置いてしまい,生意気にもというか,無礼にもというか,先生を差し置いて中村先生に直接コンタクトを取ってしまったのである。今思えば本当に申し訳ないことをしたと反省をしている。
   さて,中村先生と始めてお目にかかる日,平成1952日が来た。その日の午後,先生の当時のお仕事場であった大原大学院大学にお伺いした。会ったとたん先生の不機嫌さがわかった。原因は,このインタビューの直前にお送りした手紙の次の一言である。「終わってからぜひ一席設けたいと思いますから,先生のお好みをお聞かせください」。
   先生のいうにはお前のような若造に奢ってもらうほど落ちぶれちゃいない,生意気だということであった。だから,「今日は飲みに行かねえぞ」と宣告をされ,それはそれで仕方ないと気を取り直してインタビューを始めた。
    1回目のテーマは,先生の簿記観から制度会計に関するまで多岐にわたった。あらかじめインタビュー項目をお送りしていたのだが,それに対して先生は「これに書いてきたから」とメモをくださった。それは,新聞の折り込みチラシの裏にびっしりと書き込んだものであり,中村先生らしいと,知りもしないのに感心してしまった。
 最初はどこか構えていた先生も次第にリラックスされ,時々思い出話に脱線しながらもインタビューは思った以上にスムーズに進んだ。私が先生の御本をほぼすべて読んでいると分かってくださってからはとくに話が弾んだ。
   これ以降の2回のインタビューも含めて内容はすべてテープ起こしを行なっている。先生から公表しても良いといわれていたが,内容が内容なだけにこちらの方が躊躇してしまっているうちにそのままになっている。直言でなる中村先生である,人物評や学界のあれこれについて歯に衣着せぬ言論があちらこちらにある。その一方で,やはり制度設計に関わった方にしか分からない思い入れたっぷりの話もあり(たとえば,昭和49年の企業会計原則の修正),この部分だけでもいつか研究素材として使わせていただこうと思っている。
さてそうこうする内に,午後4時を過ぎた頃から先生はそわそわしだした。そして今日はこれくらいでいいだろうとなったのは,4時半ころのことであった。先生は,「飲みに行くぞ」とおっしゃられた。そして,さっさと片づけを始められ,最後に中折れ帽をかぶって,もう今にも歩き出さんばかりであった。
私は,飲み会はなしと聞いていたので少々戸惑いながら,録音機や資料などをあわてて片付けた。先生は事務の方に連絡をいれ,すたすたと歩き出した。私はただただ後をついていくだけであった。
先生は,後から事務の若い方も呼んでいるからといって,まっすぐ神保町の交差点方面に向かって歩き出された。速い。思ったよりも速く,というよりせっかちに歩かれた。神保町交差点を渡りさらに南に数百メートル歩き,着いたのは如水会館であった。先生は「ここの店が5時から開くんだ」とだけおっしゃり,中に入られた。
Mercury(商神)という名のその店は,後から思えばお昼間からやっているようだが,先生は飲むのは5時からと決めていたようで,座るなり生中ではなく生大を2つとおつまみを注文された。先生はお疲れさんとねぎらってくださり,飲めといわれるので思い切り飲んだ。すると,先生は笑顔で飲めるじゃねえかとばかり,追加を頼んでくださり,今度は日本酒の徳利が2本出てきた。ここからはほぼコップ酒である。おかげで少し遅れて,大原の方がこられた時にはすっかり出来上がっていた。
先生のお酒は陽気で楽しい,というのはきっと多くの方が納得されるのだろう。噂には聞いていたがそのピッチの速さにはとても着いてはいけなかった。しかし,本当に幸せな気分も味わった。それは宴もたけなわの頃,ウエイトレスさんに先生はいった。「僕ね,如水会の調布支部長なんだよ。それとこれ,俺の孫弟子なんだ」。俺の孫弟子といってくださったことが,私にとっては非常にうれしかったのである。
2時間ばかり,まだ7時前という頃に宴は幕を閉じた。この短い時間に結局徳利を1回に2本ずつ,4回以上お代わりしたがそれ以上は覚えていない。先生はさっさと支払いを済ませ,颯爽と帰っていかれた。
残された私は,次の日も東京で仕事があったので,当時お気に入りであった東京ドームホテルまでの約1キロをふらふらになりながら帰った。まだ通勤者が家路を急ぐ頃にすでに酩酊していたのであるから格好の悪い話である。
わが国制度会計最後の大家,中村忠先生。その孫弟子と呼んでいただいたことに,私は誇りを持ちたいと思っている。