京都産業大学と須田先生
昨年の春(平成22年4月),私は母校京都産業大学に移籍した。その一月前の3月に大津プリンスホテルで,私は主催者の一人として須田ゼミの同窓会を開催した。数年ぶりで,先生の病状を横目に見,ひやひやしながらであったが無事に開催ができ,多くの方々が参加してくださった。
(この同窓会について少し説明を加えておく。須田ゼミ同窓会と称しているが,実はゼミ生だけの集まりではない。須田先生が指導をされた,京都産業大学,関西大学の学部ゼミ生以外に,京産大に当時あった会計職講座センターという課外講座で指導を受けた方々,関大では大学院のゼミや講義で指導を受けられた方々や同じく課外講座等で先生と接せられた方々が,その出身に関わらず一堂に会するというユニークな組織となっている。これはもちろん,先生のお人柄によるところ大であるが,その意を汲んだ関大出身のN氏やK氏が常に共同主催者として協力してくださったために実現したことも銘記したい。)
さて参加者は皆,先生の闘病中のお姿に驚きを隠せなかったが,先生自身はいたって前向きで,ご自身のこれまでの歩みとこれからの抱負を力強く語られた。そのスピーチの中で先生は,自分がお世話になった大学のすべてに自分の教え子がいる。神戸大学にはS先生とT先生,関西大学にはO先生,そして京都産業大学に私が移り,これは学界では稀有なことでありちょっとした自慢だという話をされた。なるほど,そういえばそうかもしれないと思いつつ,私は新しい大学での活動を始めることとなった。
須田先生が京都産業大学経営学部に赴任されたのは,昭和59年のことであった。これは先生の恩師,一橋大学名誉教授中村忠先生(故人)からお聞きしたと思うのだが,その赴任には少々事情があったという。当初赴任するはずであった大学の話が土壇場でダメになり,急遽,本学に赴任が決まったのだそうだ。最初に声を掛けた大学には悪いが,私にとっても本学にとっても勿怪の幸い,ラッキーなことであった。
須田先生はよく京都産業大学に赴任したての頃の話をされた。当時,大学から歩いて15分くらいのところにあった職員住宅に住まわれていたが,「この前の雨の日があったじゃない。傘を忘れてね。濡れて帰るかと思っていたらさ,産大の女子学生さんがどうぞって,傘に入れてくれたんだよね。感動したね」。先生はとても純なところがあった。
大学職員住宅の隣人の多くは若手の職員の方々で,今では大学の幹部になられている方も多い。私が本学の出身者という話になった時には自然と出身ゼミの話になるが,須田ゼミと聞いて,昔ご近所でしたという方も結構いる。
この職員住宅時代の話をする時,先生は本当に楽しそうであった。この春,先生を日本橋のご自宅に見舞った際も,「○○さんはどうしてるの?えーっ,そんなに偉くなってんだ。昔はね・・・だったんだけどなぁ」。「昔はあれだよ,教職員が一緒に遊びに行ったりなんかして,本当に楽しかったんだよな」。話は尽きないのである。先生にとってこの時代が,何のしがらみもなく,掛け値なしに楽しい日々であったのであろう。
もちろん教員の中にも若き時代を共有された方々もまだ多くおられ,当時は二人部屋であった研究室でお互い頑張ったよと懐かしまれる先生や,ここに戻ってくればいいのにと思っていたんだという先生方さえおられる。しかし,おそらく先生の研究に大きな影響を与えたであろう経営統計学のM先生は,一昨年急逝されており,これには先生も大きなショックを受けられた。
そんな方々が先生逝去の報に接し,心からの弔意を示してくださった。京都産業大学は先生にとって幸せな初任地であったのだと思った。
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