2011年12月1日木曜日

思い出の先生方(須田先生編:その6)

須田先生とのお別れ
   調子が悪い悪いと仄聞しながらも,先生のことだから奇跡の復活があるのだろうと最後ま で信じていた。ただどう見ても調子が良くない,しっかり休養してほしいと思っても,先生は研究こそが生きがいだからと譲らなかった。
   さすがにこれでは遺憾となって,4月にどうしても休んでいただこうと説得をする覚悟でお訪ねしたが,その際は先生もついに療養することを受け入れられていて,少しほっとした。
   5月に長く住まわれた大津に帰り,日赤病院に入院し加療されていた。私が最後に訪ねたのは521日の日曜日であった。「橋本君ね,回復基調なんだよ」といきなりの前向き発言で,先生らしいなと思った。長年の同志でもあった奥様と目の中に入れても痛くない愛娘さんに付き添われ,先生は満足そうであった。
その際もいつものように昔話に花を咲かせバカな話にお互い大笑いしたが,先生は,この日は何でもある学会の司会を引き受けていたそうで,それが叶わず申し訳ないことをしたと気にされていた。先生らしい気遣いと思いつつ,正直あきれてしまった。
ただ,いつもは厳しい先生が,「橋本君はさ,学会の賞を二つもとっているんだよな。よく頑張ってるんだよ。産大も大切にしてくれるよ。だけど人がいいからってなんでもかんでも引き受けちゃ大変だよ」と声を掛けてくださった。それはすべて先生に当てはまるではないか,頼まれて断ることをしなかったのは先生ですよと心の中で反論したが,ありがたいお言葉と素直に受け入れることとした。初めてで最後のお褒めの言葉であった。
   その週末には沖縄で簿記学会が開催予定であったが,それにも参加できないと残念がられた。そこで,私は沖縄で何かお土産を買ってきますから,また学会の報告にお訪ねしますよといって部屋を出た。
   見送りに出てくださった奥様からは,もう1週間持つかどうかわからないと告げられた。それでも私はどこかで先生の復活をまだ信じていた。しかしそれは根拠のない期待でしかなかった。530日の夜半,奥様からメールでその時が近づいたとのメールをいただき,翌朝お伺いするとの返信を送った。
   平成23531日は忘れえぬ日となった。朝9時頃に病院に着いたところ,奥様から携帯に電話があり,その少し前に亡くなられたとのことであった。間に合わなかったのである。病室ではいまだ事後の処理が行われ,廊下で待たせていただいた。
   少しして病室に通された。そこには安らかに眠る先生が居られた。奥様とともに対面し先生とゆっくり話すことができた。もちろんお返事はないのだが,話している気分になった。そして,こういう場に立ち合わせていただいたことに深く感謝した。
   その後,先生のご遺体とともにご自宅に向かった。先生のすぐ下の弟様のお車に乗せていただいたのだが,先生に瓜二つのお姿お声で時々先生と話している錯覚に陥った。ついてからしばらくし,先生の後継者であるS先生も来られて段取りも一段落したので,大学に戻ることにした。
先生のご自宅から大学までは比叡の山越えで30分ほどである。ご長男が車で送ってくださったが,さすがに先生と錯覚することはないものの,やはりどこか先生に似ているなと思った。金融関係の会社に就職されて2年ほどだが,仕事の関係で資料を探していると先生のお名前が良く出てくるようになり,あらためて親の仕事を理解したそうだ。
   お通夜,告別式とめまぐるしく時間が過ぎた。日本全国から多くのそうそうたる会計学者が駆けつけ,先生の学界におけるプレゼンスの高さをあらためて思い知らされた。私はその二日間,葬儀委員長を務められたN先生とご一緒した。N先生は須田先生の福島大学,一橋大学大学院での先輩であり,須田先生とはご厚誼が深くこれ以上にない方にお引き受けいただいたと思った。
    結局最後まで参列させていただいたが,やはりお骨上げの時が本当の別れだなと感じた。儀式ばったこの行為は何のためにあるのかと思っていたが,本当の諦めをさせてくれる貴重な儀式だと理解した。
    すべてが終わって感じたのは,須田先生が本当に多くの方に愛されていたということである。ご家族やご親戚,ご友人や教え子,研究仲間とそれぞれの方がそれぞれの思いで参列された。中でもやはり奥様はじめご子息や愛娘さんの先生に対する思いの深さをひしひしと感じ,先生は本当に幸せな一生だったのだなと思った。
   今はただただ安らかにお眠りくださいというしかない。合掌。

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